2009年6月30日火曜日

6月30日(火)英語科教員あれこれ


・ 本校の「英語教員数は専任、常勤講師、非常勤講師を含めて総計25名」である。「大部隊」である。ちなみに2番手は国語で21名、三番手が社会、数学のそれぞれ15名である。とにかく「英語科の教員は多い」
・ 多いということは「英語の教科時間数が多い」ということであり、「英語に力を入れている」ということに他ならない。これだけ「英語教師配置に人件費をかけている」のだから当然「英語教育の結果」、すなわち「教育の成果」を出して欲しいと思うのは当然である。
・ だから先般、「英語教科は本校の代表科目」と宣言し、英語教育に力をより入れて行くことを「鮮明にした」のである。25日の職員会議でも「英語強化チーム」の編成を全教職員に明らかにして体制も明確にした。
・ まず当然のことながら「チーム長は英語科の教科長」とし「副チーム長に昨年の海外語学研修を担当してくれたH教諭」を当て嵌めた。47歳の働き盛りだ。大阪外国語大学のイタリア語学科卒である。このイタリア語と言うのが良い。
・ 本人がもし英語科卒ではないということを幾分気にしているとしたらとんでもない。一つの外国語だけではなくて二つの外国語をマスターするということは特に「外国語の本質をマスター」するのに良いというのが私の考えだ。私などはうらやましい。評価している。それに大学では外国語は2科目取らねば卒業できない。
・ 本校には「40代教員で結構良い人材」が揃っている。30代は「キラ星」のごとくいる。40代の内一人は残念ながら不慮の事故で教師から他の仕事に転じて貰ったが、「40代の働き盛り専任教諭は13名」居る。この人たちが伸びてくれれば「本校の将来は明るい」し、私は安心出来るのだ。大いに期待しているだけに「時に厳しいことも言う」。
・ 社会科には素晴らしい先生が一人だけだが居る。体育は「女性教諭も含めて人材の宝庫」だ。4名も居る。「数学は理数科長と進路指導部長の両輪」がいる。国語は大変重要な科目で人数も3名居るが、残念なことにこの中に例の朝読書持ち時間減の張本人が二人も居たから私は落胆し厳しく対応した。
・ あと一人の国語の教師は副校長に言わせれば「あんなの見たことない」くらい仕事をする。とにかく朝は早いし、分掌主任で、部活はインターハイに出場させるなど見事な「必殺仕事人」であることは私も認めている。
・ ところが英語科と言えば全体では教師数が多い割りに40代の英語教員は二人と少ないのだ。しかも内一人はこの4月から入試広報室に転じて貰った。これしか方法はなかったのである。 この先生、まだ若いし、先には早稲田大学に2名も合格させてくれた実績もあるから英語の教師として頑張って欲しかったが「入試広報室のエースに育てるのは時間がかかる」と思ったので致し方なかった。
・ 私学勤務において入試広報は「死活の問題となる最重要な場所」であり、塾との関係や学校全ての熟知、何よりプレゼンテーションなど「総合的力」が求められる。特に「人間性」が問題となる。「人に好かれ信頼されるタイプ」でなければならない。
・ シーズンに成れば土日がつぶれる。自分のことばかりいうような教員ではアウトなのである。従って誰彼務まるものではない。「IT技術の駆使」なども絶対である。この時代に「私はパソコンは駄目です」などの「努力の無い、諦め人間」には到底役に立たない。したがって辛かったがこの45歳の英語の教員を入試広報に回したのである。
・ そうすると大切な英語の教員は前述のH教諭と成る。私は時間をかけてこの教員を観察した。だから昨年カナダカルガリーにアテンドさせ、その仕事ぶりとその後の活躍を見ていたのである。 残念ながら今年のバンクーバー語学研修は「新型インフルエンザ問題」で中止にせざるを得なかったが、今年も彼を派遣する積りで準備させていた。このように「私の彼への期待」は徐々に高まっているのである。
・ 確かに幾分暗くて口数が少なく、昔は勤務状態について色々言う人間もいたが今ではそういうこともなくなった。今後は変わって行くだろう。それを大いに期待している。次の「英語科の責任者」として私は期待しているのだ。とにかく「適材適所」を私は徹底的に追い求めるし、そのような指導をしていく。それが「人を育てる」ということだ。
・ 英語科が少し動き出してくれた。過日英語科長とT英検担当教諭が報告に来て呉れたのだが「6月に受験した高校3年生の英検受験の結果」が出た。なんと「目標の英検2級合格者」が前年度に較べて「3.4倍」に増えているのである。
・ 中でもこの「H教諭のクラスは全合格者数の59%を占めている」。圧勝である。嬉しかったのは英語科のO教科長がこのH教諭のことを「賞賛」したことである。彼の「陰ながらの努力」を私に伝えたのである。「リーダー」たる者のこういう態度が素晴らしい。
・ 私は直ぐ動く。彼のクラスとあと英語強化クラスの2クラスの「TOEICブリッジテストの受験料2835円(税込み)の半額を学校負担」とすることを決めたのである。一種の「奨学金」みたいなものだ。 「英検」に加えて特別に英語を高める必要のあるクラスに実用英語TOEICを始めたいと言う英語科の要望に具体的に応えたわけだ。理事長がただ「有り難う」だけでは何にも役には立たない。このように「具体的に形で示すことが私のやり方」であるし、これこそが公立に出来ない「私学の良さ」である。
・ 昼休みH教諭を含めた3人の先生が「お礼」に来て呉れた。嬉しかったのだろう。私は私で半額出したのだから「頑張って欲しい」とプレッシャーを与えることが出来る。「果たして本校の生徒がTOEICで何点取ってくれるのか」。そういう楽しみもある。
・ ちなみに私は低くて670点だったと思う。随分昔の話だ。英語科のKコース長のK先生とM先生は900点を軽く超えている「英語の達人教師」だ。別にTOEICの点が高いから達人とは言ってはいないが「仕事に対する真摯な取り組み態度」を私は評価しているのだ。それに高校英語で言えば女性のK教諭も光ってきた。「人材が揃いつつある」のが嬉しい。いずれも30代だ。30代以下には人材が多い。

2009年6月29日月曜日

6月29日(月)浪速ボーイスカウト団結成


・ 私は校内に「ボーイスカウトの団」を結成して、「クラブ活動としての位置づけ」をすることを決め、今その準備に入っている。すでに「日本ボーイスカウト大阪連盟」の幹部の人ともお会いして「団ナンバー」も戴いた。
・ これに先立って学校に「奉仕委員会」を作り組織化を図った。この奉仕委員会は大きな枠組みでありこの中に今まで活動していた「国際ロータリー活動」「神社奉仕」「中学生の老人ホーム慰問活動」等に加えて新たな「公共場所の清掃」などを活動項目に入れたものを計画している。
・ そこに「ボーイスカウト活動」を加えて多面的に学校全体として「奉仕の精神」を「学校教育目標」に加えることを目的としている。社会のニーズとして若者に対して「生きる力」や「奉仕の精神」が議論になってきていることは承知のとおりである。
・ そのとおりだと思う。「自分を大切にする」為には「他人や公共を大切にする」ことに他ならないことを教えていかねばならない。単なる学力だけの「頭でっかち」だけでは生きて行くことは出来ない。
・ 着任以来この「奉仕の精神」のことを私は考えてきた。なんで「ボーイスカウトやねん?」という疑問に答えれば以下のようになる。まず既存の組織の中でボーイスカウト活動は「生きた組織であり国際的」であるということに尽きる。
・ 幾ら良いことを私が唱えても「具体化、実践化」していかねば「単なる念仏」」に終わってしまう。既存の組織に乗ってそこから活動を開始する事がもっとも効率が良い。これも「木村流」である。
・ もう一つの大きな理由は実は「神社界とボーイスカウト活動は極めて密接な関係」があることである。名誉理事長の大阪天満宮や理事長職務代理の道明寺天満宮もその地区のスカウト活動の拠点である。神社精神を建学の礎としている本校にとって「奉仕の精神」の涵養は「教育の目的」なのである。
・ 加えて本校にいる神社の子弟で教員となっている者の中には「スカウト活動について経験豊富な教員」がいる。とにかくボーイスカウト運動は知らない人は多いが結構本校には身近な存在なのである。中でも英語科のT教諭は最適の人材である。とにかく私は今彼に「あらゆる仕事を与えて鍛えに鍛えている」のだ。その意味は将来分かるだろう。
・ もう一つの理由は「多聞尚学館の活用」である。スカウト活動はその設立の経緯から「野外活動」を中心に自然を学び、「友情や協調の精神を育てる」ことが中心である。キャンプもあるし、そうように考えれば「多聞をベースキャンプに金剛山や葛城山等の舞台」にはことかかない。
・ 加えて「奉仕委員会の委員長」にはアルピニストであり、ハイキング、トレッキング、雅楽の指導者でもある教師を当て嵌めた。格好の人材と私は大変評価している。組織はとにかく「トップ次第」である。「トップがよければ組織は動く」ものだ。
・ とにかく「ボーイスカウト運動は健全な青少年育成を目指した世界的な社会教育運動」なのである。こういう立派な組織に乗らない手はないと私は考えたのである。スカウト活動は現在「世界の216の国と地域で約2800万人が参加」しており日本では歴史は古くて1911年と言うから本校の出来る前の明治44年にスカウト隊が結成され、本校が出来る前年の対象11年に全国組織の日本連盟が出来たとある。
・ 日本には現在17万人のメンバーがおり、「大阪府でも16の地域で約14000人が活動」している。近隣の国では韓国、インドネシア、シンガポール、台湾などアジア地域では特に盛んであり、国としてもこれらの国々と今後は今まで以上に仲良くしていかねばならない関係にあるのは当然である。
・ 日本国内では関東の「大学にサークル活動」としてはあるみたいだが、「中学・高校では存在していない」から本校の「浪速中学校・高等学校団」が「日本で最初の学校団という名誉」なことになった。恥ずかしくないように内容を高めて行きたいと考えている。
・ 今後「多聞尚学館の場所提供」「地域への貢献・奉仕」なども考えて行く。例えば大阪国際マラソンの沿道警備や選抜高校野球の開閉会式への協力などである。勿論活動を通じた「自己研鑽」が目的であることはいうまでもない。
・ まず先般、下調べとして生徒自治会と奉仕委員会でアンケート調査を全生徒対象に行ったところ結構多くの生徒が「奉仕活動をする機会や時間がなかった」と言った結果が出てきた。中にはボーイスカウトの経験者も多く居たのである。これを受けて現在全保護者に説明と依頼状をだしているところである。
・ 「スカウト」とは「先駆者」の意味であり「自ら率先して幸福な人生を切り開き、社会の先頭に立とう」という意味である。私はこの20世紀初頭にイギリスで始った活動を、今改めて「浪速ボーイスカウト団」としてこの住吉の地で始めたいと思う。
・ 「育成団体」が必要であるが私の考えはPTA組織でも良いし、教育後援会でも良い。教職員を育成組織として結成する手もある。一度専門家に検討してもらえば良い。一度に上手く立ち上がらなくとも「一隅を照らしながら出来ることから」やれば良いと考えている。
・ このようにして私は「新しい浪速」を作っているのだ。平成19年は「浪速が変わる、浪速で変わる」、20年度は「新生浪速の第二章」21年度が「浪速の教育改革はまだまだ続きます」だったが、「やるべきことはまだまだ多く残っている。」「志を同じくする教職員」と頑張って参りたい。
・ 付いて来られない人は「退場」して欲しい。退場が嫌なら「私の時間の邪魔だけはしないで欲しい。」私はこのように思う。少なくともバブル崩壊後本校は「惰眠をむさぼっていた」から相当遅れていた。沈没寸前まで落ち込んでいた。それを今「急速に回復」させているのである。
・ 今「木村と言うエンジン」で「ふかしにふかして走っている」のだ。これが分からないような連中に今更あれこれ説明する時間はない。私が何をしてきたか、過去2年半を見てば分かるだろう。「評価は後世がする」ものだ。今居る教職員に評価をしてもらう話ではない。

6月28日(日)テレビ放映「だいなんこう」


・ 今日は朝の9時30分から3チャンネル「SUNテレビ」で本校の紹介テレビが放映された。「ただ一点を除いて」パーフェクトな内容で満足している。200%と言ってよい。ただ1点とは何か。「それが問題」だ。
・ 放映は「前半と後半部分」に分かれており前半は「多聞尚学館」が主体で後半は「学校が主体の編集」となっていたのだが、前半の部分でなんと「大楠公(だいなんこう)」をアナウンサーは「おおぐすこう」と発言していたのだ。それも2回もである。これでは麻生総理だ。
「しゃれ」なら構わないがしゃれではないだろうし、それに「楠木正成公」に申し訳ない。恐らく自宅でこのテレビを見ていた入試広報室長の顔色は「青ざめて」いたに違いない。チェックしたのではないのか。
・ それにしても本当に「若者は漢字や読みを知らなくなった」。元々が「楠木正成公」自体を知らないのだから「困った」ものだ。私の知人も教養はあるのだが「楠木太公」と書いたりする。楠木と太閤とを混同しているのかなという思いだ。
・ それもこれも小学校から歴史を教えてこないからだ。「歴史を教えるのは反対と言う特定勢力の声」が聞こえる。特に「偉人の紹介」は戦後教育で基本的になくなった。「戦前の偉人はすべて否定」だ。
・ それにしても映像会社も映像会社だ。一人や二人で編集したわけでは無かろう。「大勢の目と耳の中」で今日の本番まで来ているはずなのに「おおぐすこう」と大真面目に言うのが面白いでは済まされない。アホなところがある。大楠公奉賛会や湊川神社からクレームが付くのを恐れる。
・ しかしプロと言うのは「上手い」ものだ。素晴らしいものを作ってくれた。多聞の紹介も学校紹介も「見事」であった。ストーリーが通っており「私の考え、思い」が正しく伝わるように編集されており私は大変嬉しかった。
・ 元々の脚本と言うかストーリーも紙2枚程度で簡単なことしか書いていないが最後に見るとちゃんとまとまっている。これが「プロの腕」なのだろう。私は一箇所だけ要望した。原稿は2007年の「浪速が変わる、浪速で変える」、2008年が「改革の第二章」。そして今年の2009年だ。
・ 原稿には「改革の集大成」とあったので「それは違います。改革は続きますとしてください」と変えてもらったのである。ディレクターは「なるほど」と承知してくれその場で変えるのだから面白い。簡単だ。
・ だから私はアドリブで「継続は力」と言ったのである。その間時間で2分、あっという間の撮影であった。まあアドリブの連続で撮影し、それを編集するのが上手い。安いコストで仕上げなければならないから悠長にやっているような暇はないのである。
・ ただ「前半の後」で知人が電話をしてきてどうも後半戦のことを知らないのだ。確かに前半と後半にコマーシャルが結構長く入って居たりして「前半で終わり」と思った人は多かったに違いない。「しばらく後に後半戦が始まりますとテロップ」でも流すべきだった。
・ 元々「地方局なので全国ネットではない」が目的はこの「プロが作った映像と編集」をビデオに落として本校が「広報に活用する目的」が主体である。テレビ局が許可をしてくれているのである。
・ さっそくDVDを作って関係者にお渡しよう。関西大学さんも自前のPRビデオみたいになって部分があり喜んで貰えるだろう。寺井名誉理事長や南坊城職務代理も綺麗に写っていた。
・ しかし良いものが出来た。これが今年は「大活躍」することになろう。9月から始まる学校説明会に活用されるのだ。しかしとにかく「おおぐすこう」は「だいなんこう」に変えて貰わないといけない。
・ 入試広報室は塾の先生方を多聞尚学館にご招待し「見学会」を行うと案内状を出していた。過日は大阪府私学課のご担当が「校地としての認定」をして頂いたので「現地視察」に来ていただいた。その方は「素晴らしい施設ですね。浪速の生徒さんは喜ばれるでしょう」と言われたそうだ。
・ とにかく映像を是非見て欲しいものだ。素晴らしい出来であるが、「物が良いから」そのような映像になるのだ。「DVDを沢山作ろう」。ご要望の方にはお分けしても良いと思っているので葉書でも送って頂ければ送付させて頂きたい。

2009年6月27日土曜日

6月27日(土)男の引き際


・ 一服の「清涼剤」であった。「すがすがしい」気がした。だからこういう記事に触れるとしばらくは気持ちが良くなる。日本経済新聞が26日の囲みの記事にしているのだが、その見出しは「武田薬品工業・武田國男氏が退任」「来年からは株主席で」とあった。
・ 昨日行われた「株主総会」で「武田薬品工業元社長で会長の武田國男氏が退任」された。ホテルニューオオタニに集まった1766人に静かに語りかけ「私も来年の総会から皆さんと同じ株主席に据わる事になる。その立場から武田薬品の成長を今後も見守って生きたい」と語りかけられたという。
・ 自身の仕事を振り返った感想では「社長として10年、会長として6年務めたが先輩が残してくれた4品目や従業員、株主のお陰でここまでやってこられた」とこれは形どおりの感謝の言葉であるが、お人柄からか「真摯な思い」を感じる。「謙虚」なのだ。
・ 今後「顧問とか相談役とか一切の肩書きを持たない」と言うことで武田薬品での役職は一切なくなることに対して株主から「何らかの形で会社に残って欲しい」との強い要望に対して武田氏の返答は以下のようなものだった。
・ 「長谷川閑史社長という素晴らしい後継者を得て、私の仕事は全て終わった。完全に身を引く」と明言されたという。「素晴らしい」。この退き様に私は「感動」する。男として格好が良い。だから一服の清涼剤と私は言ったのだ。
・ そして最後は「武田薬品が今後も世の中の役に立つ会社であるために全員が地道に努力することが必要だ」と社内へ向けたメッセージで締めくくったという。最近ではついぞない「男の引き際」である。69歳と言われるがまだお若いのになーという感じだ。
・ 日経新聞に「私の履歴書」という大変有名な記事欄があり、日本人あるいは我が国にゆかり深い外国の人々を含めて「立派な業績」「大きな影響」等を与えた政財界や学界などの著名人がその月の1日から月末まで「人生の生い立ちを履歴風に記述」するまさに私の履歴書そのものである。
・ そこに「書きたいと思っている著名人は山ほど」おられるらしい。だから簡単に「次は私の順番」というわけにはいかないとのことだ。とにかく有名なコラムであるのだが、そこに前述の武田國男氏が登場したことがある。私は今でもその内容を明瞭に記憶している。2004年の頃か?
・ 何故記憶に残っているかと言えば読んで「面白かった」からである。とにかく「抱腹絶倒」で、翌日が楽しみになるような記述であった。軽妙洒脱で「文才」もお持ちであった。「人間の香り」が高いのだ。要は人間が「下種(げす)」ではないのだ。
・ この私の履歴書はその後日経新聞社から「単行本」になって販売されるのが普通である。又著者が大量に購入して知人やお世話になった人々へ頒布するのであろう。中には「自慢話」がきつすぎたりするものもあったりするが、余程の人物でもない限り又読もうとは思わないのだがこの武田氏に関してはもう一度読みたい気がする。
・ 武田氏はご自身のことを「落ちこぼれ」といわれる。1940年神戸の住吉別邸に武田家の三男として生まれた。武田家の本宅は大阪市内の道修町にありそこには長男がいるのである。学校は「甲南ボーイ」で幼稚園から大学まで甲南一筋である。
・ 創業家だから武田薬品に入社するが傍流で社内の「鼻つまみ者」と厄介者扱いであったとご本人が言っている。ゴルフ三昧で「窓際族」であったらしい。ところが社長になるはずの超エリートの長男が突然ジョギング中に亡くなり、この辺から運命が変わって行く。
・ 「独裁者」「バカ殿」などと言われながらも社長になるや「大企業病」に陥っていた武田薬品の「大改革実行」を推進する。「徹底的な社内改革と人事制度の刷新」を進め経営資源の「選択と集中」で、社長就任9年目で売上高1兆円の世界ブランド武田薬品を見事に「再生」したのである。
・ 私が前に勤務した「府立旧制高津中学の初代の同窓会長が武田薬品創業者の武田長兵衛氏」であった関係で私は武田薬品には親近感を抱いていたこともあり、この「私の履歴書」を熱心に読んだのであるが、読みながら「すごい人」だと感じ入っていた。
・ ご本人も書いておられたが米国でまじかにみた大規模な欧米の巨大製薬会社と大阪道修町の薬種問屋的お店(おたな)の違いに圧倒された「危機感」がベースにあったとある。素晴らしい経営者はすべて「心配性的危機感が背景」にある。「脳天気」では務まらないのだ。
・ 傍流を歩みながらもひとたびそのポジションに付くや「冷徹なまでの合理化」を推し進め、「ばっさ、ばっさ」と切っていくのだ。恐らくアメリカでの4年半が大きな影響を与えたことは間違いない。
・ 「最後まで手を抜いてはいけない」のだと痛感する。経営のトップが「これで良い、しばらく休止」などと言ったらそれでお終いだと言われる。「私などは根は優しいしまだ甘い」。自分に置き換えて考えることが多くあった。
・ 私は思うのだ。傍流、窓際と言われながらもその間「じっと考え、思い、勉強していた」に違いない。甲南で遊び、ゴルフ三昧といえどもひとたび立てば「このような仕事」をするのだ。その「変貌が面白い」。この辺は「尾張のうつけ」といわれた信長に被ってくるものがある。
・ 武田薬品と言えば知らない者はいないくらい有名な大阪発祥の世界規模の企業で、その創業家一族で初代武田長兵衛以来の名経営者「武田中興の祖」とまで言われた人がこのように「さらッ」と引退するのだ。今後会社とは一切かかわりを持たないという。信じられないような話だ。
・ 我が国には古くから「引き際の美学」があって、120%武田國男氏は当てはまる。「長谷川閑史社長という素晴らしい後継者を得て、私の仕事は全て終わった。完全に身を引く」と明言されたというが「ちょっと格好良すぎる」くらいだ。
・ 世の中には「引き際を失敗」して「晩節を汚す」ということがどちらかといえば多い。日本の美学は「責任を感じた者が反省して出直す」よりもさっぱりと「辞任」「辞職」「切腹」で身を処することが美しいとされてきた。「私もそのように生きてきた」。
・ 今回は勿論大いなる業績を上げた本人で、創業者の一族がさらっと退任するのだから普通にできることではない。「美しい」。同じ新聞にどこかの田舎の市で引退した元市会議員が公共の公園に「自分の銅像」を立てようとして大きな問題になっていた。「あの公園は自分が議員の時に作ったものだから」と言ったとあるが「醜い」。大きな違いだ。
・ 私も「立派な後継者を得て引き際を大切」にしたい。そのように思ったのである。特に私の場合、根城は関東だから、引いたら大阪にはいない。立派な引き際をしたいものだ。「教職員は早く引いてと思っている」だろうが、まだやることはある。武田國男氏は社長会長で16年だ。それに比べれば私などまだ3年で後13年ある。申し分けないがまだ引かない。

2009年6月26日金曜日

6月26日(金)学校行事前半戦終了


・ 「1月以来の行事」がすべて一段落した。私学は本当に大変だ。特に今年は忙しかった。1月以来、「半年間の学校行事」を主だったもので書いて見ると以下のようになる。いずれも少しづつ昨年と内容を変えているので、その聞余分に「神経を使う」のだ。
・ まず入試準備、入試と合格者発表、3年生のセンター試験、大学受験、卒業式、本年度の入学者数の決定、入学式、多聞尚学館開館式、新型インフルエンザによる臨時休校、関西大学との連携調印式、塾長様来年度入試説明会とPTA社会見学会、保護者懇談、進路週間、同窓会総会等「目白押し」であったのである。
・ 休むまもなく行事が進む。随分前に「学校は行事消化型社会」とある教育論文に書いたことがあるが、これだけは本当に間違いない。その行事もPTAなど学校外の人々を巻き込んで行われる行事と生徒と教職員だけの内部行事と色々あるが、どれもこれも大切で間違いなく「行事をトラブル無く遂行して行っている限り学校は見た目安泰である」と言える。
・ 私は行事単位に「バイオリズム」カーブは微妙に異なるものを持つが、終われば「ホッ」とし、又気持ちを切り替えて次の行事に向かうという感じだ。ところが教員は「定例的な行事」については「見事に」やりきって行く。
・ 観察していると「生徒の反応」なども予測できているみたいだ。「次に何が起きるか、起きそうか」頭の中に回路が完成されているように見える。だから定例行事となると決して慌てない。どういう手を次に打てば良いのか分かっているのだろう。
・ ところがだ。「全く新しい物、出来事、人物などには容易に順応できない」ように見える。「入学した生徒と新たに仲間になった教員の生態」については前述したように分かっているから極めて精神状態も落ち着いて対応できるが、今まで経験したことの無いような出来事や人物には「立ち往生」するような場面もあるみたいだ。
・ 例えば前回の「新型インフルエンザ」で修学旅行が延期になったりすると、慌てふためきはしないが途端に「らくらく処理」とは行かず、「慎重」になる。そして「消化不良のものが胃袋に残った感じ」でその後もついて回ることになる。
・ そもそも教師の仕事とは元々「低緊張状態がだらだらと定年まで続く」仕事である。「ヒートアップ」し「クールダウン」する「快感を楽しんでいる」ようには見えないのだが果たしてどうだろう。山があって谷があるというリズムのある世界ではない。
・ 民間企業みたいに売上高や利益目標、生産数値などは全く関係ない世界なのである。しかし本当はそれではいけないのであるが、とにかく「数値化が苦手」であるし、特に特定の集団に属する教員には数値化は差別に繋がるという考えがベースにある。「多面的な見方が不得意」である。
・ その理由は生徒が3年たったら卒業して行くというサイクルに関係していると私は見ている。3年でまた元に戻るのだ。「3年一回り」でくるくる生徒は変わっていく。そして毎年毎年同じ年の生徒が入学してくる。やることは大体同じである。自分は年をとっていくが「教育の対象はいつも同じ年」である。
・  余程の努力でもしない限り「革新の心は無くなる」。同じことの繰り返しでもう「手馴れたものになるのである」。それは極めて自分にとって「」である。「安住」なのである。だから新しいことに挑戦しよう、行事を変えてみようとはならなくなる。
・ この月はこれがあり来月はこれがあると誰もがわかっているのである。新しい生徒や新人の講師などには決して驚いたりしないが、「新しい校長の誕生」などがあったりすると途端に身構えることになる。この校長は自分と自分たちにとって「良いか悪いか」「損か得か」の回路が回り始めるのだろう。よく言えば教員は「人見知りする人種」なのである。
・ 賢い教員は「じっくりと観察」して、「新校長を見定め」ようとするが、賢くない教員は「ここで一発かましたれ」などの態度を取ることに成る。新しい校長が例えば「内部昇格」で就任したりすると、もうこれは大変で意見は完全に二つに分かれる。
・ 「何であいつが校長やねん」というのと「まあ順当だわね」というものだ。そして私のように外部から「落下傘にのって着陸」したりすると「天下の一大事」で、順応する教員はまあ少ない。
・ 今私のスタッフである管理職4名は2年半前「大人の対応」をした人間ばかりであった。賢い人間だったのである。このように人間と言う者は全く想像もしない、経験も無い、人物や出来事が起きた時に「真価が現れる」。
・ 最近NHKでやっていたが入社試験も今日では様変わりで単なる知識の多さなどよりも「いざと言うときの対応の仕方」を見ていると言う。ベストセラーの本もあった。「地頭力」と言うらしい。総じて学校の教員は新しいことに「臆病」である。それは前述したような学校と言う本質的な環境もあるからだ。私の論点は臆病までは結構だ。しかし臆病を「隠れ蓑」にして何もやろうとしない、変えようとしないことを責めている。これは「サボタージュ」である。
・ 臆病を理由に「新しいことや今ある行事の見直し」をしないと「誰が得をするか」というと「教員が得をする」からである。「去年と同じ」であれば誰も責任は問われないし、仕事のやり方も分かっている。「新しいことをしようと思えばそれを企画し役割分担を決め、結果についても責任を負う」からだ。
・ 特に仕事量が増えることが大嫌いなベテラン教員が、若い新進気鋭のやる気満々の先生に「それ、誰がやるのか?」と言った途端に「案はポシャる」のである。だから学校行事は「去年と同じ」で変わらない。
・ 「やる仕事が変わらないから意識も変わらない」。それで1年が過ぎて行くのである。そして1年経ったらまた去年と同じ行事が始っていくのである。本当に人が変わるというのは難しいものだ。「良い年をしたおっさん教員が校長に一言二言、言われて変るようなら苦労はしない」。
・ 物事を変えるのは簡単な話である。お金を出して買うか、作り直せば良い。しかし「人の意識は簡単には変わらない」。「あの人は変わった」というのは私は「ウソ」だと思っている。そんなに簡単に変わるわけがない。
・ 「変わった振り」をしているだけだ。私はそのように考えている。しかし「変わった振りをするのも立派なこと」である。だから「振り」だけでも良いから変わって欲しいのだ。振りをしてもらうために「評価処遇システム」を導入したという面も正直ある。
・ 私立学校で最も大切なことは「生徒」だ。教職員が大切でないのではない。「生徒が大切だから教職員が大切なのである。」この順番を間違ってもらっては困るのだ。中には誤解をして「自分が最も大切」などと思っているような教員がいるがとんでもない話」だ。
・ 授業料を払ってくれている生徒が大切で給料を受けとっている教員は2番目である。その給料は生徒からの授業料で支払われているのだ。誰が考えても分かる理屈である。「生徒にため」に自分がまず変わった振りをしてでも頑張って欲しい。そのために「私は次々と新しい仕事を投げ掛けている」のだ。そしてようやく本当に変わりつつある本物も出てきた。「本物と偽者の違い」は直ぐ分かる。

2009年6月25日木曜日

6月25日(木)新世界だるまのどて焼き


・ またまた「週刊誌に本校の名前」が記載されている。今発売中の「サンデー毎日7月5日号」だ。「難関大現役進学者 高校ランキング 全国トップ500校」に本校の名前が出ている。副題には「実合格者では分からない真の高校の実力」ともある。その通りだ。「本校の実力」をまだ世間の人は知らない。
・ 「早慶上理・MARCH・関関同立」への進学者数を競って書いているのだがその500校に本校が記載されていると言うだけの話である。ただそれだけの話だが「マア、載らないよりは良い」。数値に不満はあるがまあ満足しておこうという「微妙なところ」だ。
・ 念のため記載しておこう。早慶上理は早稲田、慶応、上智、東京理科大でMARCHは明治、青山、立教、中央、法政大学のことを言う。関関同立はお分かりだろうから敢えて書かない。
・ 本校は正直なところまだ発展途上だが西日本で公立私立の中で76番目にランクされ、中でも「早稲田の2名」が光っている。ついぞ最近ではなかったことだ。昨年は「東大」も出した。大体大阪の子どもは大阪の大学しか目が行かないがこのように徐々に東京進出している。
・ しかし本校には親戚となった「関西大学」がある。微力ながら関西大学を応援しなければならないし、又助けて貰わないといけない。「関西大学進学者数を増やさないといけない」。今後「スポーツ分野でも関西大学」を目指す。
・ 「浪速、頑張れ」と本校のOBの会社の会長さんから生徒・教職員に「差し入れ」があった。新世界で有名な元祖串かつの「だるま」の会長さんは本校OBであり、「好感度ナンバーワン俳優の本校OB赤井英和」さんの友人としても知られている。そう言えば赤井さんはテレビにて“だるま”を時々紹介されている。
・ 蒸し暑くなったし、「後輩、頑張れよ」となんと山ほどの「どて焼きの真空パック」を2000個以上もプレゼントしてくれたのだ。ボクシング部の顧問を通じて1昨日届いたので、早速全員に配ったところだ。
・ 坂田三吉でも有名な大阪の代表的観光場所である、「新世界のじゃんじゃん横丁」近くのにある元祖串かつ「だるま」は確かに味の良いことで知られ、何時前を通っても大勢の人が並んでいる。「後輩思いの先輩」を持って浪速の生徒は幸せだ。有難いことで私は丁重にお礼状を出したのである。
・ そうしていたら急遽来客があった。この前ブログにおいてご紹介したこれまたOBの堺市の方が「板絵」をまた2枚作って持参してくれたのである。この前奥様と一緒に多聞の板絵を見に行かれたそうで、その時に玄関の生徒の靴が揃っていなかったということで今度は「はきものをそろえる」と言う題だった。面白い。
・ しかし今日は「手紙」をよく書いた。昨日出張した「神宮司廳」の幹部に対する礼状、前述した串かつ「だるま」の会長への礼状、そして「研究会招待状」だ。実は今ある運動クラブでお世話様になっている府内の指導者とのお礼を兼ねた研究会を計画しており、そのご案内状だ。
・ 本校の入学者に影響ある府内運動クラブの有名な指導者であり、招待する場所は結構気を使うのだ。場所も「安っぽい」ところでは意味はない。何時もある訳ではないからだ。大体私の場合、大阪天満宮の宮司紹介の場所を利用する。一言で言えば素晴らしい場所ということである。
・ 15時50分から職員会議。今日のメイン議題は「新武道館の建設位」について新校舎建設チーム長から説明があった。「上手いまとめ方」をしてくれていた。これで全教職員のテーマとなったので、近いうちに「最終結論」を出すことに成ろう。
・ 職員会議の最後に私のほうから「今夏のボーナス支給」についてメッセージを出して支給を通知した。もっと出してあげたいがこれが精一杯であり理解をお願いしたのだ。その文書の要旨は次のようなものだ。「私の形」である。
理事長メッセージ                      平成21年6月24日
 教職員の皆様
                             (学)大阪国学院理事長
                                 木村 智彦
            平成21年度賞与一時金の支給
 掲題の件につき下記にて支給致します。

1.平成21年度賞与一時金支給額
    省略
2.今次支給に当たって
① 今年度は「新経営計画初年度」ということもあり、確実に遂行して平成25年度の創立90周年に繋げる必要がある。また21年度入学生は中高合わせて対前年度大きく減少し、21年度からの授業料値上げでも財源は厳しい。
② 私学助成削減の影響については、20年度3/4の適用であったが21年度は100%適用され「中学25%、高校10%の私学助成経常費助成削減」の影響を受ける。
③ 又「公私比率の見直し」など先行きはまったく不透明で油断は出来ないというのが現時点における「経営観測」である。又国家公務員や大阪府人事委員会の答申も対前年度0.2ヶ月分の賞与削減が決まっている中で対前年度水準以上の支払う「経営環境と支払い余力」は全く無い。
④ 特に「新武道館」を来年度中に完成させて「新校舎の種地を確保」しておかなければならない。平成26年末までに「新校舎建設」を現実のものにするためには、何と言っても「生徒数の確保が絶対的条件」であり、今回「関西大学との連携を強力な武器」として「来年度入学者数の確保が至上命題」である。
⑤ 16日文部科学省は全国の公立小中の校舎や体育館の耐震強度の調査結果を発表した。又昨年6月施行の「改正地震防災対策特別措置法」で診断結果の公表が義務つけられたがこれも「大きなプレッシャー」となっている。
⑥ 近隣の高校も必死になって「生き残り」をかけて勝負をかけてきており、本校も「財務体質を強化」しながら立ち向かっていかねばならない。そのような観点から今次回答としたが、今重要なことは「教職員が一丸となって新経営計画を達成し目標を達成する」ことである。教職員には「ご理解とご協力」を切にお願いするものである。

2009年6月24日水曜日

6月24日(水)神宮司廳


・ 久しぶりの「県外出張」である。県外といっても三重県の「伊勢神宮」だから「ちょっとした遠出」の感覚に近い。どうしてもある調整事があって「神宮司廳」に出向かねばならなかった。司庁と書かない、司廳だ。こんな漢字書けない。どうしてと思うが「やはり重々しくしている」のだろう。
・ 神宮司廳は伊勢神宮の祭儀にかかわることや事務が執り行われているところである。全国88000社の神社神道の頂点に立つ伊勢神宮の「アドミニストレーション」を仕切っている「頭脳」といっても良い。仏教で言う「総本山の総務、宗務」である。
・ 用件の趣は7月に予定されている高校1年生のための「伊勢修養学舎」についてである。特に「禊指導」について「お願いの筋」これあって、理事長直接の出馬である。元来は神道科の教諭か教頭で良いのだが、神宮司廳のトップと直々の調整はやはり彼らには荷が重い。
・ 経緯があって急遽昨日出張を決めたのであるが、朝早く到着しようと思って7時8分初の「上六からの近鉄特急」に飛び乗った。宇治山田駅まで行く。時間は2時間弱だ。神宮に赴くのなら五十鈴川駅が最も近いのだがそこはタクシーなどいないから大体山田まで行く。
・ 司廳は「お陰横丁」を突っ切って、赤福本店の横の車道を抜け橋を渡ると一挙に神宮の森になる。森閑とした中に建物はあった。完全に「域内」である。まさに「内宮のお社」を髣髴とさせる天井高さのある建物であった。
・ 神宮司廳は神宮祭主の次に大宮司、小宮司、禰宜10名、権禰宜20名、宮掌(くじょう)、楽長・楽司22名、出仕25名、とにかく一般社会には理解できないような名前の役職者などが総勢600名近い人々が「大神様にお仕え」している。今日お会いしたのは禰宜の席次が3番目相当のお方というから相当な役職のお方であった。
・ 会談は2時間に及び11時29分発の上本町行き特急に飛び乗る。昼食をとる間もなく「大阪天満宮に直行」して宮司に結果を報告して今後の方向を確認した。行くときは雨で帰ったら蒸し暑かった。
・ 電車の中では行きも帰りも人はほとんどいなくて貸しきり状態であった。とんぼ返りだったから「赤福も伊勢うどん」も食べられなくて残念だった。しかしお陰横丁も人は居なくて伊勢神宮も週末以外はこのような閑散とした状態なのだろう。
・ 「7月21日から始まる伊勢修養学舎」には「校長講和」もあり私も1年に一度は五十鈴川にて「」をするのだ。2泊3日で生徒は何かを掴んで帰っていく。重要な本当に「本校が誇れる大切な学校行事」である。もう56回目である。「56年目だから半端ではない」。
・ 電車の中ではいつも新聞を買ってこれを読むのが楽しみであったが今日はある記事に目が止まり「腹が立ってきた」のである。橋下知事は「私学は贅沢しすぎ。高校生にふさわしくない修学旅行の質やレベルがある」と批判したというのだ。
・ 昨日大阪府は一般会計で「908億円の2009年度第4次補正予算案を発表」したが府私学課の要求した「私立の小中高11校の修学旅行キャンセル料として6600万円余り」の計上を見送ったというのだ。
・ その代わり「府立高校などにパソコン56400台を計上」したという。事業費は37億円である。現在府内の児童生徒向け配備率は8.8人に1台であるが国の目標水準3.6人に一台を目指すという。
・ 完全に「知事の心底」が見えた。ここまで私学をいたぶるか。「オーストラリア修学旅行のどこが贅沢だというのか」「府立高校にも海外修学旅行はあるではないか」「大阪を支える公立私立の生徒の学習環境にそれほどあからさまな差違をつける理屈はなにか」。
・ もともと政府の15兆円の補正予算の交付金が原資であり、それには私学の保護者の税金も入っているのだ。公立学校にのみ「使え」と政府は言っているのではない。確かに一般財源だから「使いみちは知事の意向」があるとしても府内で30%の生徒が私学で現実に学びその保護者は善良な「納税者タックスペイヤー」ではないのか。
・ 私は帰りの電車の中で「うーん、これは今後さらに厳しい事態が予想される」と痛感した。ここまで知事は「私学を狙い撃ち」している。私は思ったのである。「浪速」を守らねばならない。公私入り乱れての生徒獲得競争になる。知事の頭には完全に公立しかない。
・ 「浪速を武装し浪速を守る」ことが出来るのは、思い上がったようだが「私だけ」だと思った。「風雨を避け、浪速を路頭に迷わさないため」には今私以外に「誰が浪速丸の舵がきれる」というのか。
・ 「神宮司廳での会談は成功裏」に終わったがむしろ帰りの電車では「悲壮感」が沸いてきたのである。橋下知事と互角に渡り合いながら「浪速の生きる道を進めて」行かねばならない。
・ 私以外に誰がいるというのか。そのように思って来たのである。「私学は贅沢ではない。私学の拠って立つところは建学の精神を大した特色ある教育」なのである。知事は贅沢と特色を混同している。伊勢修養学舎も知事に言わせれば2泊3日の贅沢旅行となるのだろうが、そうではない。「浪速の教育そのもの」なのである。

2009年6月23日火曜日

6月23日(火)「ゆるキャラ」最終段階へ


・ 「ゆるキャラ」がほぼ決まりかけている。「最終段階」となった。生徒諸君には昨日「入選作品の表彰」を行った。デザインの部は「最優秀作品賞」が一名で中学校1年生とその保護者の合同作品である。その他優秀賞が7名、努力賞が9名である。少ないが「図書券」の授与だ。
・ 「採用作品のイメージは添付の写真」である。大変良く出来ている。しかしまだいささか「きつい」感じするのでもう少し優しくして欲しいと頼んでいる。「ウインク」する図も悪くは無いのかなと思っているのだ。
・ 「校鳥(スクールバード)」である「ふくろう」をイメージしており、加えて「神社神道を建学の精神にしている学校」だから服装など神職のイメージであるところが嬉しい。「神木の榊」も持たせることにしている。
・ それに「まるまる」と太ったところが秀逸だ。僕に似ている。やせ細っているより丸々と太った体が面白いし、「温和で柔和でユーモラス」なイメージであるところは学校の教育方針にも合致する。「がりがり」はいけない。ふくろうは「不苦」とも「」にも繋がる。良いデザインを頂いたと思っている。
・ さて「ネーミング」であるがこれも応募総数は多くてその中から担当教員と私が選んだがこれはデザインに較べて比較的楽だった。中には校長の私を茶かして「智ちゃんふくろう」とか「校長ふくろう」とか「きむふくろう」とかあったが最終的に3点に絞られた。
・ 「ふく丸」「ふくピー」「ふくまろ」である。結局「ふく丸」が多くて7名の生徒が書いてくれていたのである。デザインは丸まる太ったふくろうであり丁度デザインのイメージに合致すると考えた。
・ 「ふく丸クン」「ふく丸チャン」「ふく丸殿下」「ふく丸姫」などは「応用動作」であり「ふく丸」と決めたのである。奈良県が「せんとクン」、彦根市は「ひこにゃん」、浪速は「ふく丸」だ。これで勝負することに決めたのである。
・ 今、広報情報委員会が「ホームページの刷新」を計画してくれている。私の希望は本校のホームページを検索したら、この「ふく丸」が「ウインク」をして「いらっしゃい、浪速のホームページに」と「動画」で微笑みかけて欲しいのだ。出来れば「音声」も入れて欲しい。
・ 勿論本校の携帯ストラップやその袋も映像として紹介して欲しいのだ。面白いものになるだろう。この「ふく丸のキーホルダー」を9月の浪速祭までに作らなければならない。出来れば「ふく丸ぬいぐるみ人形」も急がないといけない。
・ 特に小学6年生が学校訪問に来る時はふく丸ぬいぐるみが大歓迎するのだ。その中に入って頂くのは入試広報室のT教諭だ。「イメージがそっくり」である。そのままでも良いくらいである。忙しいときは体育科のK先生に頼めば良い。
・ これで幾分私の持つ「こわもて」のイメージの減衰には役立つのではないか。しかしどこかに「遊びの心」がないといけない。「浪速祭も自治会によってこのふく丸が大活躍」することを期待致したい。

・ イメージ刷新のもう一つは本校の代表クラブの一つである「硬式野球部のユニフォームを一新する」ことに決めた。いまこれも最終段階だ。最初に甲子園に出た時に決めたというからもう20年も前のデザインで、いかにも古臭くなってきた。
・ 今度は漢字の「浪速」を英語の「NANIWA」に置き換えた。「英語を本校の代表教科」としたことは前にも書いたがそれにも関係している。色もくすんでいたが今度はさわやかな色調で最後に2色が残った。別に漢検の問題があったからではない。
・ 車と同じで車体の色も時代の影響を受けるように野球のユニフォームも変わっていく。メーカーはそのようなことを言っているらしい。この新しいユニフォームで「今年の夏の大会は優勝して甲子園」に行くと決意した。

・ 折角一生懸命に原字を書いたが「正門の表札の字」を又練習して書かねば成らない。今の表札は右が「学校法人大阪国学院」で左が「浪速中学校浪速高等学校」を並列で書いたものだが「関西大学との連携」で書き直しが必要となったのだ。正式に「校名変更」が受理された。
・ 今度は右側に「関西大学連携浪速中学校」と左には「浪速高等学校」とする。左右に並び立つのだ。中学校生徒・保護者・中学校教員は喜んでくれるだろう。原字を私が「」で半紙にちゃんと書いてそれを表札メーカーに渡すと「鉄製の表札」が完成する。
・ それを建築メーカーが取り付けてくれる。「思い入れ」があるだけにこれだけは私が必ず書くことにしている。「多聞尚学館」の正門の字も私が書いた。私が終わってもこれだけは残るだろう。
・ 「いや、3年で表札が変わったくらいだからこの先何があるか分からないって?!」。とんでもない話だ。今度は長く続くことを祈る。他の学校法人に吸収されて校名が変わるようなことになってはいけない。「浪速」は大阪の別名である。由緒ある名前である。「大阪を代表する私学として未来永劫続く」ことを祈念して書く積りだ。

2009年6月22日月曜日

6月22日(月)30代の校長先生


・ 府教委は教頭を務めたことがない「30代の教員も府内の公立小学校中学校や府立高等学校長の校長選考試験」を受けられるように「人事制度」を改めた。「橋下知事の強い意向」を受けてである。府教委からはこういう発想は出てこない。
・ 今年の夏から募集を始めるという。団塊世代の大量退職が本格化する中、「校長の若返り」を進める狙いと言うが、それは表向きで橋下知事の狙う学校改革を促進する「テポドン発射による衝撃効果」を狙ったものだろう。要は「ショック療法」で、「知事の常套的なやり方」である。
・ 学校現場からは「応募する若手教員がいないのではないか」との声も洩れてきているみたいだが、個人的には大変結構なことだと思う。応募者が殺到することを期待したい。大体今学校が置かれている実態は「管理職のなり手がいない」と言うことである。本校でも私は苦労した。
・ 給料は変わらない、権限はない、遅くまで仕事をしなければならない、教職員の突き上げが怖い、保護者からの文句を聞かねばならない、など「割りに合わない仕事」と完全に思われており、確かに今の処遇では割りの合う仕事ではない。
・ 府立のある校長(56才)は「校長の責任は重いが人事権もないし予算も無い。その両方を持つ知事とは違う」と言い、「若手だとつぶれてしまう」と記事にはある。まあ一面は当たっている。
・ しかし知事の求めていることは「そういうことにつぶれない人材を求めている」のであって少しこの校長はピントが外れている。38歳の知事はひょっと府庁に現れて「バリバリ」好きなようにやっている。その「校長版」を狙っているのだ。しかし「柳の下に2匹目のどじょう」がいるかどうか。
・ もし教頭経験もない30代の校長が「見事にやりきったら」今居る校長の顔色は「青ざめる」だろう。それを知事は狙っているのだ。別に190名近く居る高校の校長をすべて30代にしようとは言ってはいない。
・ 文部科学省によれば今全国の公立小中高の最年少校長は42歳。大阪府は高校の場合57歳以下で教頭経験ある者が条件である。私は55歳で校長になった。57歳と言うのは「3年はやって欲しい、やらせたい」が背景にある。たった1年と言うわけにはいかないからだ。
・ ちなみに学校と言うところは大体「3年が基準」となる。その理由は良くは知らないが私の想像では高校生活3年間というのが関係していると思っている。1年生から3年までで一回りと言うわけだ。
・ 小中では40歳以上57歳未満で教頭か教育委員会の指導主事以上の職位にある者が条件である。今大阪府の校長の平均年齢は57歳と言う。今度の改正は10年以上の教職経験があれば校長や市教委の推薦を得た上で選考試験がうけられるようになった。
・ しかし新聞記事にあったが30代の男性教員は「だれも手を上げる人はいないんとちゃいますか」と言ったというが、果たしてどうだろうか。校長推薦か市教委の推薦が必要とあるがまずここが問題だ。
・ 実はこの「フィルター」が結構厳しくて勿論校長の職位だからだれかれOKと言うわけには行かない。又手を上げたが「貴方は残念ですが駄目です」となったら、もうその学校にも他校にも勤務するのがしんどいかもしれない。「あの先生、前の学校で管理職選考に手を上げて駄目だったらしいよ」などの噂話は翌日には分かってしまう話だ。

・ 今「若い世代が全面」に躍り出つつある。そもそも橋下知事も38歳と30代だ。ついこの前には千葉市長に31歳ですぞ、31歳の市長の誕生だ。1月には三重県松阪市に33歳市長、3月には佐賀県上峰町で29歳の町長、それぞれ当時の最年少首長の誕生だった。倍倍ゲームで増えているのだ。
・ 明らかに「既存の古臭い体臭と体質に嫌気」がさしてきて、自分たちの常識で測れないような価値観を有する若い世代に任してみたいという感覚ではないか。「これ以上悪くはならない」という「開き直った面」もあるだろう。分かるような気がする。本校でも正直ベテランという世代の中に問題と感じる教員が居る。若い世代は頑張ってくれているのだ。
・ しかし考えても見れば直ぐ分かる話で「日本の老人の跋扈」はつい戦後の話だ。「昔から日本は若い世代が世の中を動かしてきた」のである。伊藤博文27歳、山形有朋30才、板垣退助31歳、吉田松陰29歳、とこの前の日経が報じていた。信長の戦国時代も40代が仕切っていた。
・ 「若いから駄目」と言うことではなくて「駄目なものは駄目」で「若かろうと年寄りだろうと良いものは良い」のだが、打つ手がなくなったので「若さに希望を託した」ということかもしれないし、そういうことも考えていないのかもしれない。私は甘くは無い。
・ ベテランに仕事を与えてやってもらう。出来ない、しない、サボるなら「後進に道」を譲って欲しい。 多くの若い常勤講師が「専任の椅子」を待ち望んでいるのだ。改善が認められない場合は辞職強要は出来ないが「退職勧奨」は可能だ。秋口には個別に折衝する。
・ 本校には今「17名の30代の専任教諭」がいる。彼らが今すぐに本校で校長が務まるかどうかである。務まらないなどと言う積りはない。良い人材が揃っている。すべて「候補者」であることは間違いない。「全ての人が可能性」を有している。可能性はあるが確率は分からない。
・ 本校は条例などないから校長になるための年齢制限もないし教頭経験なども条件にはない。理事会の決定があれば誰だって今でも校長に成れる。「校長ポストは二つ」しかない。中学校と高等学校だ。
・ 「先頭に立って生徒募集を図り、財布の中を見ながら生徒の為に教育環境を整備し、校務の円滑な運営と教職員の指導監督」が校長の法的な責務だ。今の本校の30代の先生方にこういう校長の責務が務まるかどうかだ。
・ 大阪府のように「面白うそうだからやってみるか」とは行かない。「全軍を壊滅」せしめるようなことになってはいけない。「命をかけてやる」ことが浪速の校長の責務である。「無責任」「人のせいにする」「文句をたらたら言う」ことに楽しみがあるような人では務まらないだろう。誰も付いてはいかない。
・ しかしそういうでたらめな教員に一度校長をさせてみたい気もする。今度は私が徹底的に「突っ込んでやる」。そうすれば「校長や副校長や教頭の気持ちも少しは分かる」だろう。大きな責任ある仕事をするということはそういうことだ。出来ないというなら「教員の仕事に全責任を持って一隅を照らせよ」と言いたい。
・ 今の「本校の管理職は60代が3名で55歳が1名」だ。私も60代だ。確かに幾分年は食い、お互い「髪も白く」はなったが精神的には若い先生方に負けてはいない。ひょっとしたら勝っているかもしれない。体力の衰えは感じるが「頭と心は負けてはいない」と思っている。「気力が勝負」だ。その4人の管理職に対しても私は負けては居ない積りだ。この負けないという気力が私を支えている。

2009年6月21日日曜日

6月21日(日)今朝の読売新聞


・ ここまで大きく、それも1面の右側だから間違いない「トップニュース」である。でも「これがトップニュースになるか?」という疑問の思いもする。スクープならいざ知らず、もう何回も報道されている内容だが「読売新聞」は違った。今朝の朝刊である。「大阪府内私立高入学者 今春最低」との大見出しである。「一文字5センチ角」はあるくらい大きな字だ。
・ 他の見出しは「27821人 公立に人気集中」。中見出しも「有名大連携も苦戦」とある。もう「いい加減しにして、お願い!」と言いたい気分である。先には産経が報道し、朝日も済んだ。毎日もやった。最後のトリが読売というところであろうか。
・ 折角の日曜日朝から気分が悪くなると思ったがよくよく読み、「記事のトーン」を考えて見ると「私学サイドに応援?」と受け止めることも出来るし、「微妙」なところだ。勿論公正中立な新聞報道(?)を信じるとしても、私には私学サイドに厳しいトーンの記事では無いように見えたがどうであろうか。
・ 大体記事の扱いは当然各新聞社「競争」であるが、それぞれ「視点が違うのは当たり前」である。特に朝日と産経は異なる。最近読売はどうも正直よく分からない。毎日はミニ朝日と言ったら叱られるであろうか。日経は間違いなく無色透明である。
・ 社会を震撼せしめるような事件報道は各社一斉に扱う。ところが紙面を埋めるような記事がないときに私の経験では「隠し記事」、懐に温めていた「温め記事」を持ってきて「埋めるやり方」をする。私みたいに「365日、6紙をなめるように読む人間」にはよく分かるのだ。
・ ある新聞が報道した翌日ではいかにも「後追い」と見えるので、間を離すのも常套手段である。そのようにして読売新聞は今日大阪の私学問題を持ってきたのか、「何か意図があって」このような扱いをしたのか大変興味がある。今朝の読売のトップ記事を当然各社は知るところになり、その反応も知りたい。恐らく「ひややか」な見方ではないか。
・ 読売の内容は今まで報道されているものと同じだが少し変えている。これも当然である。今朝の記事では具体的に学校名が入っていたのに私は驚いた。ご存知だと思うが教育担当記者は「社会部」に属する。言い換えれば社会部の記者の中に教育担当記者が居るのが普通のスタイルである。したがって「花の社会部記者」は事件事故があれば「すっ飛んで現場にとび」事件報道の記事にする。
・ ところが教育問題はそれほど緊急性などがない場合が多いので、そういう場合は社会面やトップ面を飾る記事がないときに「蔵出し」して教育問題の記事を載せるのだ。恐らく勝手な想像だが今世間を騒がすような大きな事件がなくて記事を埋めるものが無いときに「教育記事は大変に助かる」のである。
・ 今日の読売の記事の特徴は前述したように具体的であった。まとめて見れば「大阪私学の入学者数は4年ぶりに減少に転じ、27821人と過去最低の数値となった。減少幅は過去10年で2番目で94校のうち定員割れは62校あり、前年よりアップしている学校は38校、ダウンが56校」だ。本校はこの56の中に入っている。100人以上減らした学校が8校で本校はこの中にも入っている。また「専願比率も21%と過去最低」と報じている。
・ そしてわざわざ早稲田摂稜さんが40人の早大進学コースには40名の募集で17名となり、併願中学内部進学を入れても「定員346人に対して82人の入学者」だったとか、初芝立命館さんは対前年度100人近く減らし「定員400人に対して219人の入学者」とか「生々しい」のである。
・ 府北部の私立高校の関係者のコメントとして3年連続して定員割れしており、「教職員の給料をカットしている」のにこれでは「先行き経営不安で仕方が無いとの嘆き節」まで載せている。
・ 一方公立高校は入学者が増えて「192校中定員割れはわずか4校」で昨年が21校だったから明らかに「公立回帰」が分かる。しかし以上のような内容は今まで報道されていることであり、このブログでも何回も言及してきていることであるが、やはりこのように書かれていると気分は良くない。
・ 本校は減らしたと言っても500人以上の入学者の話で摂稜さんの82人とか初芝さんの219人とのレベルの話ではないが、それでも「明日は我が身」と思えば体が震えるのである。
・ この夏「公私比率」が撤廃されるだろう。確かに規制で30%の中学3年生が私学の枠ということはあったが、「助成費を削減」してこの比率を撤廃して「大阪の私学はどうせよ」と知事は考えているのか。

・ 今日の午後は年に一度の「同窓会総会」であった。場所は学校のカフェテラスを貸してあげているので、余分な費用も要らないだろう。「平成25年の創立90周年」には新校舎を建てねばならず「同窓会には1億円くらい支援」をお願いしたいと私は明確に述べた。
・ 同窓会はまったく任意の民間の組織であり、「公的な学校」と一線を敷かねばならない。したがって本日の私の会費も「公費の入っている学校の資金」から流用するわけには行かない。管理職にも出席を義務付けたので会費はすべて個人のポケットマネーとした。こういうことは大切なのである。
・ 同窓会も「新しい同窓会つくり」を進めていくとのことで大変結構であるが、まず財政について公私を峻別し、母校のためにご支援をお願い致したいと思う。今日は50枚のスライドを使って最近の学校事情をご説明したのである。ほとんどすべての参加者から「私への賛意とエール」を頂いた。

2009年6月20日土曜日

6月20日(土)大学説明会


・ 「株式会社」の4年制大学として国内初で東京のLEC東京リーガルマインド大学が来年度の学生募集停止することを決めたと過日発表した。各紙とも結構大きく取り上げていた。「ウーン」という感じだ。もっと頑張れなかったのか。何でも最近は「簡単に止める」。諦めが早い。
・ 従来学校を設立運営できるのは「公益法人として学校法人」のみが「寄附行」により可能であったものを「規制緩和」で株式会社が大学や高校を設立出来るようになった「構造改革特区」の最初の注目すべき大学であったが、結局のところ「駄目」だった。郵政などと一緒に「小泉改革」の目玉だったのに、次々と壊れて行く感じだ。
・ 理由は単純で「学生が集まらなかった」からである。この大学も札幌から福岡市まで全国12ヶ所にキャンパスを置いていたが今年から東京に絞って継続の意思を示していたのだが結局ここもギブアップで残った大学院のみ継続するという。
・ 東京リーガルマインドは「資格試験予備校」で、大学経営に進出したのだが、「何が問題」だったのか経営者は詳細に分析して外部発表してもらいたいものだ。単に「甘くは無かった」と言うだけでは済まされない。現にまだ459人と言う学生が学んでいるのだ。
・ 首都の東京キャンパスでも定員160人であるが今年の募集目標60人で実際の入学者は19人と「大幅な定員割れ」という。これは定員割れというものではなかろう。数人不足を定員割れと言うのであってとんでもない話だ。
・ 構造改革特区だから「千代田区」が心配して「今後どうするの」と問い詰められたら「止めます」だから無責任な話だ。残った経営資源を今居る学生に使うと言う。直ぐ合理化をして学生から集めたお金を無駄に使うなと言いたい。
・ 現在のところ株式会社立大学は全国に6校ある。大阪でも市内のLCA大学院大学は06年に開校して同じく「経営難」で今年度から同じように募集停止している。株式会社立の大学というからそれなりの特徴で開校したのだろうが、あの駅前の「NOVA」に近い何か「うさんくさい」ものを感じる。
・ 私は今大学が元来有している「神秘性」が失われてきているのかも知れないと考えている。確かに一時期「象牙の塔」と言われ「大学の閉鎖性」が大きな問題となったが「何でもありの時代」になってきて、「失われる物」も見えてきたような気もする。
・ 確かに希望する学生が居る限り「いいじゃないか」と言う声もあろうが、「止めた」と言うだけでは大学としての社会的責任は果たせない。入学してくれた生徒に悪いではないか。卒業生がまだ一人も出ていないのに大学がなくなるような大学に進学したことは人生の大きな傷にならないか。

・ しかし大学も大変だ。今日、本校においては「大学説明会」である。午後から3年生を対象に各大学から広報のご担当に来ていただき、自大学のPRである。その数は32大学であり年々その数は増えている。担当の進路指導部は走り回って会場段取りをしていた。
・ 難関大学も含まれておりまさにこういう光景を見ると「少子化と大学の置かれている現状」を実感する。表現はいささか悪いが「学生確保に躍起」と言って良い。なんと国公立大学もその中にいらっしゃるのである。
・ このように成ったのも今の「本校の元気さ」が背景にある。何しろ進学校で生徒数が多いと来ているから大学から見れば「ターゲット」であることは間違いないのだろう。しかしここは「謙虚」に対応するように進路指導には厳命している。「偉そうにしてはならない」と。
・ 私は本校の置かれているポジションをご説明し今後ともよろしくお願いしますと申し上げた。早速、難関といわれる兵庫県の○○○女子大から2名の指定校推薦を頂いた。嬉しい。「人気の大学」だけに女生徒が喜んでくれるだろう。
・ そういえば今年の3月に退職して兵庫県の大学に転職した先生が先日「ひょこっ」と顔を見せて色々話を聞いたが「生徒募集で全国を走り回っている」とか。5月11日の送別会に大阪に来て以来今まで大阪に帰って来られなかったというから、ここでも大学関係者のお気持ちはわかるような気がする。
・ このように思っていたら久しぶりに府内の「某私立大学の理事長先生からお電話」を戴いた。相当お年を召されているが、まだまだお元気で私よりお元気かもしれない。電話の趣旨はある学部の教授を今から「行かせるので会ってくれ」と言われるのだ。
・ お会いするのに問題はないからお会いしたら新しく出来た学科の「指定校推薦で1名、AOで4名」お渡しするから何としても生徒を回してください。「浪速は別格です。」と言われるのだ。同席していた副校長も進路指導部長も苦笑いだ。
・ その学科と言うのも従来の大学の学部学科の伝統とはまったく異なった専門学校に近いようなもので「即戦力の実学」を身につけるような体系となっていた。一言で言うと「どうやったらお金が儲かるの?」というものだ。
・ その教授もつい最近までは民間会社で勤務していたサラリーマンだった人だ。こういうのを実感すると「大学は変わりつつある」ことを実感するのだ。私も入学してお金儲けの勉強をしたい気がした。
・ いずれにしても「大学教育の構造転換」が必要である。過去20年間で大学数は250校以上学生数は77万人も増え、その間の「大学進学率は36%から55%に上昇」している。「二人に一人が大学に行く時代」となったのである。
・ そこに簡単に大学や学部が「準則主義」で出来るからこのような事態になっている。今こそ「大学の質保証のあり方と量的規模のあり方」の議論が必要である。中央教育審議会大学分科会で議論されているだろうが急ぐ必要がある。

・ 今日は大学から教育実習に来ている学生の実習最終日で「授業観察」に出かけた。中学1年生対象の中学社会科で単元は「古代国家の展開」というものだった。今日は奈良の都と律令体制化の暮らしと言う内容であったが正直「ウーン」と言う印象である。
・ 一般論であるが「大学生そのものの基礎学力の不足」を感じる。もっともっと勉強しなければならない。卒業後すぐ「先生」となるのだ。そしてその後は日常に振り回されて、根を詰めて勉強する機会も少ないだろう。
・ 「教師力」と言うのは「膨大な勉強量」から来る何物かを身に付け、それを生徒に体全体からにじみ出して伝えて行くものだろう。「大学生の学力」が本当に気になる。まして教師になりたいという学生は勉強しなければならない。薄っぺらい学力、教養では教師力にも限界がある。

2009年6月19日金曜日

6月19日(金)学院神社多聞尚学館分社


・ 90年近い歴史で初めて本校は学院神社の「分社」を持つことになった。「嬉しい」かぎりである。本日「多聞尚学館」に新たな「お社」を創設し、「学院神社の御霊をご分霊」する「遷宮」を斎行申し上げたのである。
・ お祭りは夕方17時頃から「暮れなずむ前、薄暮の千早赤阪村の金剛山の山すそ」で行われた。ささやかながらも厳かに執り行ったのである。又一つ新しい記念碑となった。祭主は私で斎主は神道科の主任教諭で斎員は神道科の講師の先生である。
・ お二人とも皇學館大學卒業で由緒ある神社の子息でバリバリの神職の資格を有する。今回は神社庁からのお出ましはお願いせず「我々の手による学校行事」とした。まず午前11時過ぎに本校の学院神社にて管理職だけで御霊分けの神事を神道科教諭の斎行で済ませた。
・ そしてそのお分けした御霊を多聞尚学館に運んでお納めしたのだ。学校を3時30分に出発した神道科の教諭の手で運ばれる。誰彼ができるものではない。正式には「多聞尚学館学院神社御分霊入魂神事」という。
・ 元来は夜暗くなって行うのが正式らしいが、夕方とした。今日は月曜日から続いている「進路週間、保護者懇談会」があったりして忙しく,この日となった。出席者は当然現在の管理職は総出であるが、神道科教師と多聞指導の教師並びに丁度「週末スペシャル」でこの日到着した1年生の理数科と普通科Ⅱ類T-1組の生徒80名の代表出席であった。
・ この御霊分けのことは多聞尚学館が完成した時から考えていたことであった。当初はいわゆる「神棚」方式を考えていたのだが、「神棚の設置する場所」は決まりごとがあって簡単ではない。まず方角と建物の場合は階上に人が歩かない部屋や廊下が無いほうが良い。
・ 又お社は私や教職員だけの満足だけであってはならない。多聞を利用する生徒の目に触れるところでなければ意味はない。あれやこれやで考えていたら担当のほうから「建物の外でのお社ではどうか」とアイデアを出してきた。私には考えが及ばなかったが良い提案をしてくれた。私はこの考えに乗ったのである。
・ 費用は少し余計にかかるが「末代」までのものだ。それに正門付近であれば生徒の出入りの場所であり、来た時、帰る時を考えれば「格好の場所」である「本校の生徒は毎朝登校して来たら学院神社に頭を下げてお参り」をする。それが指導でもある。
・ そこで位置決めとなったがこれは簡単で「これ以上最適な場所はない」というようなところを決めて、ここに分社を祀ることとしたのである。肝心のお社であるが最近では神具も既製品があり、これを念入りに調べて発注した。
・ あまりみすぼらしいのもいけないし、豪華なものも本意ではない。丁度「頃合の物」を見つけて「設置工事」を行った。小さいながらも「参道」を設け両サイドに「献燈」付だ。取りすがりの村の人々の目にも触れるだろうし、防犯効果も期待できる。
・ ご祭神は「天照大御神、豊受大御神それに大阪府下の全ての神社に祭られている神々」が多聞尚学館に鎮座されることとあい成った。金剛山の山すそにあり、多聞尚学館ゆかりの人たちに「ご加護とご神徳」が頂けるだろう。周辺は緑が多いが「榊」は必要なのでその内に植樹する積りだ。
・ それにしても「立派なお社」が完成していた。私は感動したのである。小さいながらも天に向かって屋根が入張り出しておりまさに「多聞にふさわしい誂え」となっていた。同席してくれた神具店の社長さんにお礼を申し上げた。
・ 玉串奉奠は理事長校長、それに多聞尚学館長、生徒代表とした。「学院神社が昭和28年、この多聞尚学館分社が平成21年」である。その間56年間もあったが本日このようにして新たなお社が出来たことを関係の皆様と共に喜びたいものである。
・ 祭事の真っ最中、白装束の斎主が17時「祝詞を奏する」ときに千早地区にこだまする夕方のサイレンの音が村中に響き渡ったのである。何か「感動的な象徴的な出来事」であった。
・ そして時あたかも昨日多聞尚学館が「校地」として大阪府から正式に認められた。申請書類が「受理」されたのである。学校法人大阪国学院浪速中学校高等学校はこのようにして「千早赤阪村に学校地を持つ」こととなれた。私はこの2年半を思い出して胸の高鳴る思いがする。
・ 今まで既に12回述べ808名の生徒が宿泊合宿で活用した。今日から13回目の生徒80名が「誇り」を持って合宿に入館している。今後まだ使っていない生徒にも「活用の機会」を広げねばならない。
・ 早速館長と「中高一貫」担当のS教諭を呼んで、浪速中学からの「中高一貫で内部進学した高校2年生、3年生」をまとめて多聞学習合宿に入る準備を進めるように指示を出した。この生徒たちへ「特別の授業」を今後、学期に2回ほど行い、「学力伸長」を図るのだ。「手厚く」するように指示した。

2009年6月17日水曜日

6月17日(水)教員と教諭と教師と先生


・ 今まで多くの「教育・教員に関する論文や随想や手記」などを書いてきた。この校長日記もその内の一つである。書いておけば記憶には残るし、様々な感想を戴いたりして、その「反響を知る楽しみ」もある。
・ この前の関西大学との連携調印式において学長の河田先生は生徒・保護者を前にした講演会の冒頭、「皆さんの校長先生のブログ、すごいですね。毎日更新です。この日曜日はNHKテレビの天地人について書かれていました。皆さんも読まねば駄目ですよ」とまで言ってくださった。
・ 人の書いた物を読むというのがもっとも効果的で手っ取り早い「勉強法」であると私は思う。だから書物というのは古代の昔から残っている。「古事記や日本書紀」で我々は祖先のことを知り、「源氏物語」で平安王朝に身を置く事ができる。
・ 「読書は脳を鍛える」。知らないことを知り、気付かないことを気付かされる。特に若い時に多くの書を読むことだ。河田学長先生はそれを「三良」と言われ、まずトップに「良書、良師、良友」、と生徒に「諭され」たのだ。いや大学教授だから「授けられた」のである。
・ その昔、何かに学校は「先生が先生を先生と呼ぶ不思議な社会」と書いたことがあった。結構「面白かった」などと反響があったのを覚えている。生徒も誰も居ないところでも教員は他の教員を「○○先生、XX先生・・・」などと呼称する。
・ 職員会議でも「ただいま、△△先生から説明されたとおり・・・・」などと普通の感覚で使う。学校社会に転じた8年前には「まったく異質なというか、違和感みたいなもの」を感じた。
・ それは当然自分自身に対しても同じで「木村先生」「校長先生・・・」「先生・・・」などと呼ばれたときは気恥ずかしくて困ったものだった。しかし人間というものはおかしなもので今では全く「慣れっこ」になってしまって、「平気の平左」となってしまったかというとそうでもない。今でも少し恥ずかしい。
・ そこで今日のブログのテーマである。「教師と教員そして先生」の違いと使い分けについて考えてみよう。6月16日の日経夕刊の関西版「旅の途中」に「関西大学教授の竹内教授のコラム」があった。タイトルは「教師」と「教員」である。面白かった。
・ 先生は「」と言うものを論考され「師と弟子の関係」における教育的なものが近年急速に失われてきたのは「教師が教員と呼ばれる」ようになってからだと言われる。「教える者」も自分のことを「教員」と言い出したあたりからであると論考されている。
・ 教員の「員は人の集まりの中の一人」と言う意味で「員数の員」だと言われる。教員は教え導き手本となる師ではなくて「」即ち教えるという「多数居る人間の一人」という「学びの単なるツールになり下がった」と書いておられるのだ。見事な論考ではないか。だから私はこの竹内先生を尊敬する。
・ 先生は続けて、思えば戦前の教師の正式名称は小学校が「訓導」、中等学校が「教諭」、専門学校や大学が「教授」だったと書いておられ、「教えられる側の発達段階」に即していると同時に「教えるものに師たる自覚を促している卓抜な職名」だったのではないかと展開でこの記事を終わられている。
・ 「教諭」は竹内先生の言われるように旧制では中等学校の正規の教員を言ったもので戦後は「教育職員免許法」による普通免許状を有すると小、中、高、幼稚園、特別支援学校の正教員のことをいう。要は「学校教育法」に定められた「職名」なのである。
・ 調べて見ると元々教諭と言うのは江戸時代、1791年(寛政3年)老中松平定信が江戸麹町に青少年の主に道徳教育を中心とした社会教育機関であった「教諭所」から出ているらしい。
・ これに対して「先生」というのはご存知のように「学ぶ人に教える人の敬称」である。敬称なのである。従って先生と呼ばれる職業はここに書けない位多くある。元来は教育者・教育職以外に「先生の敬称」を使うことに批判的な意見はあるが、政治家も医者も先生である。
・ 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」との毒のある川柳もあるし、時代劇に出てくるやくざの用心棒や剣客なども「先生、一つお願いしやす」などのセリフも一般的である。又日本語は難しくて侮蔑の意味を含んで「センセ」「センセーイ」などと呼ばれることもある。
・ 「教師」と言うのは教諭や先生と違って「単なる言葉」であり、教える人のことを言う。ただ教育を担当する者以外に使うことはまずなくて、先生と違って敬称ではない。○○先生とは言うが○○教師とは通常は使用しない。「家庭教師」とは言うが。
・ 時々体育科などで「体育教官室」などと言っているが、教官は元々は警察官や軍人などの教育を担当する「官職の呼称」であり、例えば防衛大学校の場合は『防衛教官』という。民間が使う言葉ではない。
・ 又昔、国立大学の教職員も法人化されたので今は「教官」は使われなくなって「教員」に改められた。ところが、どういうわけか「自動車教習所の指導員が教官」と呼ばれているところもある。これは何故であろうか。
・ このように整理して考えれば面白い。本校の先生が「自分が何かを習っているわけでもない」のに同僚教員を「先生、先生」と呼ぶのは元来おかしいのであるが、何でも進化するものでこれも「日本的な呼称システム」と割り切って良いのか・・・。
・ 昔、公立高校勤務の時代にある女性教員を何かの時に「呼び捨て」に、たまたまなのだが起きてしまって、これが組合幹部に通報されたことがあった。別に私がその先生から習っているわけでもないからとか、自分の部下だからとか理屈を立てて呼び捨てにしたわけではないのだが、その時に教員の「自分が先生と呼ばれる呼称への拘り」に驚いたものだった。呼び捨てなど生まれて初めてだったのだろう。
・ あれ以来私は気をつけている。ただ一つ絶対的に気をつけていることは「生徒の前では先生」だ。これは外してはいけない。ただ二人だけとか管理職会議とかでは「呼び捨て」もある。返って「親近感の発露」でもあるのだ。生徒の前ではあくまで先生だ。
・ 私学の教員は結構しなやかで呼び捨てにされたって何か平気の顔をしている。この辺は立派である。大切なことはどのような呼ばれ方をしようと「その呼称に恥じない仕事の中身」だろう。
・ 先生でも教諭でも教師でも何でもよい。好きなような呼び方をしてあげる。ただ「自分の仕事に矜持を持って」頑張って欲しい。先生の呼称に蔑称が含まれるような先生ではいけない。「やはり教師」だろう。「教員ではなくて教師になって欲しい」と思う。本当の意味で「先生になって欲しい」のだ。

2009年6月16日火曜日

6月16日(火)ご懇篤な卒業生「楠公家訓」


・ しかし世の中には「立派な人」はおられるものだ。ましてそのお方が本校の卒業生とくるから嬉しくて、おのずと「鼻が高く」なろういうものだ。又「素晴らしい卒業生」がいることを知った。先週13日の土曜日のことであった。PTA社会見学会でのことである。
・ 「多聞尚学館」に到着すると、こちらに来ていた多聞担当の進路指導部長が私を引き寄せて応接間に連れて行くのだ。そこに「楠公家訓」と書かれた「手書きの板絵」があるではないか。
・ 事情はこうだ。先ほど「あるご夫婦」が見えられて「これを多聞尚学館に寄付したい。自分は浪高を昭和38年に卒業したもので、同窓会報に載った校長の多聞尚学館のニュースをみて妻と2人でこのように持参した」と言われたらしい。
・ ご夫婦は堺市の庭代台にお住まいの岸田さんご夫妻である。確かに卒業生名簿にお名前がある。このお方はすごいお方であり、地域では大変に有名で新聞などにも何回も記事になって紹介されているお人である。
・ なんとご夫婦で金剛山登山がすでに1300回を超え、更にお名前を高めていらっしゃるのがご懇篤なる「板絵のご寄付」である。定年退職後に絵手紙を書き始め金剛山に登り始めの頃、山道で躓いて足を痛めたお年寄りを見て、「ここに注意書きでもあればなー」と思ったのがきっかけだったと新聞記事にはある。
・ 以来、描きも描いたり今まで50枚以上奉納されている。「金剛山奉納登山」なのである。今回戴いたものも同窓会新聞を読まれて浪高の後輩にためにわざわざ持って来て頂いたものであるが、「多聞という大楠公ゆかりの施設」ということで、楠木正成公に関連した板絵として楠公家訓を考えて頂いたものだろう。
・ 素晴らしいものだ。4条に分かれており特に私は4条が気に入っている。「一生の計は幼少にあり。幼少に学ばざれば老後むなし」とまさに多聞尚学館に相応しい言葉になっているのである。
・ それを早速PTAの皆様にご披露し共に喜んだのである。3条はこうだ。「1年の計は陽春にあり。陽春に耕さざれば収穫むなし」。汗を流して働けば身に付くものは多しというものだと解釈している。
・ 書体も大変に印象深く味わい深い。書の先生についてお習いになった本格的なものである。書き上げたものに「ふくろうや仏の絵」などがほのぼのと描かれており、今回はもう一枚「ふくろうの板絵」も戴いた。ふくろうは本校の「校鳥」である。
・ それには以下のように書かれている。「ギリギリまでやったんか。もうあかんところまでやったんか。やってなかったらもう一回やってみ。人生やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。」
・ 早速私は適当な場所を選んで多聞尚学館に飾ることにした。生徒も喜んでくれるだろうと。しかし尋常に出来ることではない。頭が下がるのである。心から感謝いたさねばならない。
・ 私は岸田さんがご卒業された時代を同窓会報で少し調べてみた。昭和38年と言うと戦後復興がなされ高度経済成長時代に突入する前段階の時代だ。この年世界を震感とさせた「ケネディ大統領の暗殺事件」があった。
・ ちなみにこの時の理事長は寶來理事長、校長は平石芳太郎校長。「創立40周年記念式典」が行われている。驚くことにこの記念式典に「明治天皇第七内親王で伊勢神宮祭主であらせられた北白川房子祭主」のご名代として北白川祥子様が学校に来られている。
・ そして祭主房子様から「日の本の国に生まれし身の誉れ 励みつとめよ この学びやに」の御製が残されているのだ。本校はこのような尊いお方が出席されるような学校だったということである。
・ ところで当時は理事長や校長の任期は長くてこの「寶來正信理事長は26年の永き」にわたって務められ「今日の浪速の基礎」を固められた。本校の歴史を語る時に最初に名前を上げなければならない先生である。残ったものを調べていると「立派な理事長先生」だったことが直ぐ分かる。私の前の理事長のご祖父である。
・ 浪速の校長の在任記録を調べて見るとトップは松岡万次郎校長先生、昭和19年から37年までの19年間も校長をやられている。すごいものだ。2番手に一ノ瀬博校長の昭和56年から平成6年までの14年間、そして次が昭和47年から昭和55年までの9年間が浅田光男校長の時代だ。後は五十歩百歩で短い人で2年で普通は5年か6年である。
・ 現在のように「理事長と校長分業体制」がスタートしたのは戦後の昭和21年からでそれまでは理事長が居たり居なかったりで、実質的には学校長が運営していたのである。この辺の詳しい歴史はまたの機会に整理したい。
・ 前述の寶來理事長が「戦後の新学制」が始まっての最初の理事長ということである。その後今日まで理事長と校長の分業体制が続いた。そして私の代になって「初めて理事長・校長一人制が誕生」したのである。

・ ようやく岸田様と連絡が取れたと事務の女性が言い、電話が繋がる。なんとなんと岸田さんは「今日で1600回の登山になりました」と言われる。「いやーすごいですね」と当方が言うも「4000回を超えた方もおられます」と言われた。世の中は広い。私は丁重に今回の件でお礼を述べたのである。



2009年6月15日月曜日

6月15日(月)校内暴力急増

・ 「校内暴力急増」「3年で倍以上」「教委と府警が対策会議」との見出しは大阪日日だ。この11日に「府警少年課」のまとめが判明し、各紙が報道している。2008年に大阪府内の中学校で発生した校内暴力のうち大阪府警が生徒を逮捕するなどした「摘発件数は2008年で82件で3年前に較べて2.6倍に急増」している。
・ 校内暴力の摘発は1983年の160件をピークに減少傾向が続いていたが「06年度から再び増え始めている」。このため府警少年課は大阪市教育委員会と「定期的な対策会議を設置」することとしたと記事にはあるが、私にすれば「それでどうなるの?」という感じだ。
・ 会議の初回は11日にあったらしいが今後月一回程度担当者が集まり校内暴力をはじめ「学校内で起きている問題をテーマに意見交換」するとのこと。「意見交換してどうするの?」と質問したい。
・ 少年課によると中学校で生徒間の暴力や校舎の窓ガラスを割るなどの校内暴力の摘発件数は04年に37件であったが「05年がボトムで31件に減った」という。しかしこの数値だけに限定して校内暴力問題を考えている中学校の教員は居ないだろう。
・ 上記数値は摘発件数であり言って見れば「警察沙汰になった数値」である。この裏に隠れている校内暴力事件は極めて大きいものがあると想像できる。そのように考えねばならない。「 学校単位で生徒生活指導で処分している件数」はもっとある筈だ。浪速中学校では幸いにも警察沙汰にはなっていないし、校内の生徒同士のいさかいもほとんない。しかし「同じ府内で中学3年生の校内暴力が増え続けている」のは心に大きな影を落とす。
・ 府内で昨年「刑法犯で摘発された少年は約9700人で内半数が中学生」である。内容は「窃盗が最も多く、粗暴行為が続いている」。校内暴力の摘発件数が増えたことに対して市教委は「背景や原因は分からない」と言っているらしいが、府警少年育成室の室長さんも「非行防止対策の鍵を握っているのは中学生。効果的な対策を検討したい」とこれまた当たり前のことを話しているだけだ。しかし市教委のコメントも情けない。
・ 状況的には極めて厳しいと私は分析し認識している。これらの「荒れる中学生」が大挙して「97%の比率で府内の高等学校に進学」する。私立高校に30%、公立高校に70%だ。中学生問題は小学生高学年の問題であり高校生の問題に直結する問題だからである。
・ 誤解を招かないようにしないといけないが、このようなデータが発表された翌日12日に「衝撃的事件が府内の高校で発生」した。「富田林の公立高校の3年生が河内長野市の私立高の1年生を殺害した事件」である。
・ 私が驚くのは「単なる友達同士の喧嘩の果て」に死に至らしめたというものではない。用意周到に準備して木づちや木製のバットで顔や頭を滅多打ちにして殺害したという方法に「戦慄」を覚えるのだ。
・ そして何時もこのような事件の時の「新聞記事に出る学校長のコメント」も大体同じだ。「普段はおとなしい目立たない生徒」「明るくて、皆の人気者」「信じられない、何かの間違いでは」の類の言葉が出てくる。これも私には簡単に「そう?」と言えない気分だ。
・ しかし殺された方の生徒がいる学校長も殺した方の学校長も大変だ。「お気持ちをお察しする」。不謹慎であるが正直これが本校でなくて良かったと私はつくづくと思うのだ。しかし私でもせいぜい「今後とも命の大切さを教えて参りたい」というくらいしか言葉にならないだろう。
・ 一体全体大阪の公立中学校の校内暴力がこのような事態になってきたのはどうしてなのか。大阪市教委みたいに「背景や原因など分からない」などと言うのは無責任のそしりは免れないが、正直現場を離れた市教委に分かるはずはない。大阪の学力低下と何か関連があるのか。「知事も今回のことで何かコメントを出さねばならない」
・ 学校現場が「信じられない、分からない、そういうことをするような生徒ではなかった」などと言っているのである。結局「個人の複雑で深い事情が事件を導く」という構図で、全体がそれを「抑止できなくなっている学校現場」ということかも知れない。深い心の闇を家庭も学校も知ることが出来ないのが現実である。
・ 昔もそういう事件はあった、驚くことは無いという意見もあろうが問題は「比率」であって、増えていることが問題なのである。このまま進めばどうなる。少なくとも学校関係者として「生徒の自由を尊重する」とか「教えすぎは良くない」とか「寝とぼけた教育観が無力」なことを我々は知るべきである。
・ 逆説的に言えば、確かに厳しい経済情勢の中でも「私立中学校人気」は衰えていない。荒れた公立中学へ行かせるくらいなら少々授業料を高くとも私立を選択するという保護者が居て当然だと思う。それは府内でもデータが証明している。決して「私立中学校の志願倍率は落ちてはいない」のである。
・ どうしてこのように中学生の心は荒れすさんだものになってきたのか。この疑問に対して様々な意見があるだろう。「急に中学から荒れるだろうか。」「小学校段階からその芽は出ているのではないか」「家庭はどうなんだろうか」「お父さんは家庭で暴力的ではないのか」「お母さんが何時もがみがみ言っているのではないか」。
・ 「家庭の経済的困窮が遠因である」「しかし家庭経済が厳しくとも立派な行いをする生徒は居る」「学校はどうなんだ、指導しているのか」「しっかりと学校の先生は教えているのか」「体罰をがみがみいうからだとの体罰容認論」。
・ 「体罰許可条例の制定をすべき」「絶対体罰は許さない」「先生、ぱちんと時には体罰でも何でもしてください」、しかし実際そのようにしたら文句を言う親」「責任回避の学校」など複雑に絡んでおり確かに校内暴力の増加は簡単に解決はしないのだ。しかしそう言うだけでは何事も前に進まない。
・ 「教師は評論家になってはいけない」。「徹底的に面倒を見る」ということしか今は方法がないというのが私の考えだ。「めげずに、負けずに、指導し続ける」ということを諦めてはいない。私は何時も先生に言っている。体罰はいけない。「しかし先生の熱意で必ず子どもは変わる」「言葉と態度で生徒に詰め寄れ」「真心を忘れるな、怒りでは生徒は変わらない」を信念として頑張って欲しいとお願いしている。
・ 「諦めてはいけない」「場合によっては内規を適用し厳しい処分も辞せず」だが「最後の最後、極限まで面倒をみる」ということとしている。このことしか学校の教師には手は無いのだ。「私はやるだけやりました。後は知りません!」と啖呵を切るのは簡単だがそれは「教育の敗北」である。

2009年6月13日土曜日

6月13日(土)PTA社会見学会


・ 晴れ渡る良い天候に恵まれたPTA会員研修会であった。学校単位に様々な言い方あるのだが本校は面白くて「成人教育委員会」となっている。成人と言う意味が良く分からない。通常の「PTA社会見学会」である。
・ 昨年から私は参加している。公立高校の時代は4年間一回も同行出来なかった。教頭に代行を頼んでいたが、元来はPTA会長も参加されるから校長も行くべきだったのだが、そのような「余裕」も無かったのである。
・ しかし本校では昨年の委員長さんが「校長来るべし!」とお誘いを受け、担当の教諭も「来て、来て、保護者との間で辛い」と、何回も誘うし、日時もすべて私に合わせたものだから逃げられなくなった。学校の改革も進んでいるし、もうボツボツ参加しても良いかなと考えて参加するようになったのだ。
・ 又去年は私が「フラッ」と漏らした「長浜あたりが良いんじゃない」をPTA委員長がしっかりと覚えており、これが人質となって「太閤秀吉」「山内一豊」で有名な琵琶湖畔「出世城」で有名な長浜旅行であった。大変楽しい研修旅行となった。
・ 今年は経済情勢や新型インフルエンザ問題もありで「近場」と言うことになったと担当のS先生から聞いた。私は今年の行先については全く関与していない。担当教諭は今年から代わったが、この教員は中々「まめ」で準備に怠りは無く、「事前の企画段階」はすばらしい仕事をする。
・ ところが現場で起きる「変化」への対応はいま一つであるが、まあ一生懸命だから良いか。経験の積み重ねだ。とにかくこのS先生の企画である「観心寺」と「多聞尚学館」組み合わせは大変良かった。
・ まず観心寺であるが真言宗名刹中の名刹である。「遺跡本山観心寺」とある。遺跡とは弘法大師が開山されたお寺という意味か。とにかく、歴史ある由緒正しいお寺さんである。大楠公、楠木正成公の「首塚」や「立てかけの塔」などが現存しており、「国宝の秘仏は如意輪観音」様である。
・ とにかく「ご住職が素晴らしい」。少し遅れた我々を本堂ですでに待って頂いており、ご親切に「いす席」まで用意して頂いていたのだった。約50分間の法話は「楠木正成公の一生」を語りながら節々に「人生の生き方」を盛り込んだもので軽妙洒脱、ユーモアに溢れ、大変に我々の「精神を開放というか解放」して頂いたのである。
・ 11時30分観心寺で記念写真を撮った後「研修会の楽しみの一つ」である「昼食会場」行きである。場所は保健体育部長のI教諭がS教諭に「ここが良いよ」とアドバイスしたらしい。この教諭はこういう親切なところがある。それで事前に私とS教諭は下見に出かけた。
・ そのレストランは「山燈花」といい、本当に山里も山里で山の中だ。この山燈花というのも「種田山頭火の山頭火」から取ったものだろう。「分け入っても 分け入っても青い山」というあの有名な句の通り、山の中にレストランはある。観心寺からバスで10分、バスを降りて歩いて20分という山中にあるのだ。
・ 山の中だから冬場は閉まっている「季節レストラン」で3月から11月まで、それに「完全予約制」である。驚くのはレストランおよびその周辺は個人の所有地で、そこを手の入った自然の庭としており、今日も「紫陽花」が満開であった。ここでも記念写真を撮った。
・ レストランの窓は大きく緑が目一杯に迫ってくる中で食事をするのだが今日は貸切で収容人数は45名が一杯一杯である。料理は完全に「茶懐石」風で凝ったものになっておりメニューなどはない。料理は一品というかお盆にのせた一盆料理であるが食材の種類は多い。スモモ酒が食前酒に出されていた。料理は美味であった。
・ 実はレストランの窓越し遠くに「白壁の大きなお屋敷風の建物」が見えている。大きな門もある。その横には土蔵などもあって驚くことに「山のてっぺんから滝が庭に落ち」、それがレストラン前の小川に注ぎ込んでる。まさに「一幅の山水画の世界」なのである。
・ 前のブログにも書いたが今日の「キーパーソン」は本校理事長職務代理で道明寺天満宮宮司の南坊城先生である。観心寺のご住職と高校同窓の親友であり、「組み合わせが面白い」ではないか。「方や有名な神社の宮司で方や名刹の住職」である。まさに「神仏混交」である。
・ またこの山燈花の奥様は南坊城先生「表千家ご社中のお茶人」であり本日も母屋に建ててある珍しい「たる型のお茶室」まで拝見することが出来た。すべて宮司のご配慮のお陰である。「縁というのは不思議」なものだとつくづくと思った。
・ このようなご関係を知っていたから私は職務代理に「参加してください」とお願いしたのだ。宮司も喜んで参加して頂いた。最近宮司には色々な新しい現場というかイベントに参加をお願いしているのだ。理由は「雰囲気を知って頂きたい」ということに限る。
・ 従って職務代理は何時も言われる。全く考えも出来なかったようなことを経験させて貰える。「多聞尚学館開館式」「関西大学との連携」「塾長様説明会」など驚くばかりと言われて喜んで頂いている。
・ とにかく大阪天満宮の宮司と道明寺天満宮の宮司、それに私を入れた3人が常務理事会を構成しているのだが、このお2人は「人間関係のお付き合いの幅が想像を超えるくらい広く」て、どれくらい私が、というより浪速が助かっているか教職員は分からなければならない。
・ さて「多聞尚学館」であるが保護者として初めてご案内できた。丁度高校2年生S1とR1の合計87名と付き添い教員が5名だ。S1は英語とR1は数学が2泊3日の「週末スペシャル」である。2班に分けては「施設見学と授業風景の参観」だ。
・ ビデオによる館内説明や資料で詳しくご説明し、今までの多聞で学んだ生徒の感想文なども用意されており、「共に多聞を持てたことを喜ぶ」と言うことである。4月12日の開館式前から使い始め「臨時休校」で一回だけ中止になったが毎週末すでに今回も含め「12回目の実施で延べ生徒数は808名」、一回当たり67名となる。すごい使用頻度ではないか。
・ その後「千早の壁画」を見学しバスは一路学校に向かった。到着は17時。予定に対して30分遅れであったが無事に到着。皆さん満足して頂けたと思う。私もこのような機会を通して「保護者の思いを直接お聞きする」ことが出来る。それが大変参考になるのだ。
・ 今日は「中学校の保護者」から色々とご意見を伺った。巨大な高校の影でどうも中学生への対応が浮かび上がって来ないというイメージをお持ちだった。確かに「1550名の高校生と300名の中学生の数の差」はあるが決してそういうことではない。「私にとって中学生は極めて大切だ」。それを分かって貰う「実際の対応と情報発信」をより強化していかねばならない。

2009年6月12日金曜日

6月12日(金)私立学校の破綻


・ 「関西大学との連携契約調印式」が無事終わった。多くの方々のご支援を得てここまで来ることができたが問題はこれからだ。経営が苦しくて連携をしたのではない。支援を頼むのではない。「WIN-WINの関係」である。
・ 「生徒の為、教職員の為、学校の為に良かれ」と思って進めたことだ。「新しい関係の構築」に向かっていきたい。「力強いパートナー」を得たのだ。関西大学さんにご迷惑をかけるようなことがあってはならない。
・ それは「学校破綻」とならないようにすることだ。「私立高校の破綻」には色々なスタイルがある。公教育を担う私立学校だから「ある日突然に消えてなくなる」ということはない。会社は倒産と同時に「閉鎖」され門に鍵が掛かって中に入れないようになることは「普通の光景」だが学校はそうは行かない。
・ そういうことをすれば「生徒が路頭に迷い」大変なことになるからだ。そのような経営者は「処刑もの」である。監督官庁も世の指弾を受けることになるから、絶対にそういうことにはさせない。従って「破綻をカモフラージュ」させて「再生」の手続きを取ることになる。
・ 私学は結構「政治力」を有している学校もあり、具体的に国会議員などが理事として入っているケースもある。その狙いは監督官庁への「抑え」的なものだろう。創業者理事長はそういう発想をする。それに「耳目を引く」ため、「有名人を理事」に持ってきたりするのだ。しかしそういうことは「全く意味をなさない」。
・ まず多いのが「経営難に陥った学校」が「他の学校法人に吸収合併」されるのが一般的である。これだと見えないところで「物事が進む」から生徒保護者には全く分からないからだ。生徒保護者にとって見えるのは校長以下学校の先生だけなのである。
・ 私の部屋の入口は「理事長・校長室」と表札があるのだが、ある時生徒から「先生、理事長って何する人?」「理事長と校長とどちらが偉いの?」と聞かれたことがある。生徒の感覚はこのようなものである。「学校経営」などの概念は彼らの頭の中にない
・ 吸収合併のやり方にも色々あって「合意の上」と「理事会多数派工作での乗っ取り」がある。穏便な方法は「合意」の方法だ。ほとんどのケースに当てはまる。このケースで多いのは私立高校が「大学グループ入り」することである。
・ 特に一昨年から昨年にかけて大阪府では多かった。北陽さんが関大入り、初芝さんが立命館入り、啓光学園さんが大阪工大入り、飛翔館さんが近畿大学入り、摂陵さんが早稲田入りと枚挙に暇がないくらい多かった。
・ 大学側も「系列校」なり「係属校」なり、「傘下の高校」が増えることは「学生募集に有利」と見て受け入れてきたのだろうが、今年の募集状況では必ずしも狙い通りとは行かず、早稲田摂陵さんのように「厳しい」ところも出てきている。
・ 本校は関西大学さんと「連携校」という「新しい概念」を構築した。付属校や係属校とは全く違う概念だ。「関大にとっても初の連携校」である。とりあえず「中学校から始めましょう」とスタートした。高等学校は今後の成り行きと双方が確認している。
・ もう一つのケースは「理事会多数派工作」みたいな方法で支援を頼んだ他の学校法人が「現在の理事長を追い出す方法」だ。そして「法人名称」を変えるやり方である。これは一見「乗っ取り」に近いが法的には問題ない。企業では普通の光景だ。
・ 最近大阪で一つの事件があった。噂であるが某私立高校において以下のようなことがあったと聞く。真偽の程は分からない。創立以来女子校であったが生徒募集に苦しみ、他の学校法人に支援を頼み、何人か知らないがその法人から理事に入れたが、その理事たちが共同して創業者理事長とその息子理事を「追い出した」という。ウソかまことか分からないが絵に書いたような「乗っ取り劇」だ。
・ だから理事会や取締役会は「恐ろしい」。「多数決で全てが決まる」。しかし元来理事会とか取締役会とはこういうものである。経営に反する背任的行為、経営に対する無能力を排除し、経営結果責任とかを明確にするために「理事の多数決」で決まるようになっているもので、そういう意味では正しいのである。
・ 創業者やその息子の理事がアホウで背任したり無茶苦茶だったりすると大きな損害を会社や公益法人に与えることになる。漢字能力検定協会の理事長とその息子の事件はすさまじかった。噂ではその学校の理事も「有名なワイン通」だったと言う。大体学校経営者がワイン通でどうするのか。
・ もう一つの方法は「民事再生」で出直す方法がある。これは法的にオープンにして一旦「倒産」させ「再生」させるものである。民事再生は「再建型の倒産手続き」であるが社会的信用の失墜や地域に与える影響が大きいだけに申請した事案は少ない。
・ 「 2001年から2007年までの間に倒産した学校法人は22法人」あるが破産整理が10法人で民事再生は12法人、しかし内高等教育機関を設置する学校法人はこれまで3例と「帝国データバンク」はレポートしている。
・ 今私はある私立学院の破綻処理に注目している。香川県三豊市の学校法人瀬戸内学院だ。短大と専修学校と高等学校を有する立派な歴史と実績を有する「地方の私立学園」であるが2009年3月に東京地裁に民事再生手続きを行った。負債総額は23億円と言う。
・ 破綻の原因については詳述しないがここでも「法令違反」で文部科学省の補助金が全額不交府となり前年の2007年度も没収され「資金繰りが急速に悪化」して破綻に至ったものである。生徒は集まっていた学校であったから完全に経営者の責任である。
・ 再生については隣の善通寺市のG学院が支援に乗り出し2名の理事を出し、その後三豊市の関係者などが理事に就任して「理事長以下全理事は当然退任」である。面白いのは「三豊市が補助金をだす」ということまでしている。全く監督権限のない市が交付金を出すなど全国初めてのケースではないか。
・ これは瀬戸内学園が三豊市にとって「なくてはならない学校」だと評価されていたからに他ならない。力強いスポンサーがあったからこの学校は再生できた。しかし普通はそうは行かない。本校が危機になっても大阪市は1円も出してはくれないだろう。
・ 企業にとっても将来の分からない私立学校に「運転資金」など簡単意は出せないからだ。2002年100年を超える伝統校である「東京本郷にある郁文館学園」を居酒屋チェーンのワタミが支援に乗り出し再生させたのは知る人ぞ知る。
・ 又本校の近くの初芝学園が「うどん店チェーンの杵屋」の経営者に理事長以下経営を手放した事案も記憶に新しいがこの学校はその後立命館グループ入りした。このように短い間に経営陣は結構替わっているのである。
・ 本校の理事会構成は私が居て、一般者理事が1名、大学関係者が1名、後の4人は神社界の人たちであるが幸い、民事再生手続きもせずに今日まで来たし、「経営主体は大阪神社庁で85年間」やって来た。
・ この間神社界の手から離れたことはない。私は何時も言っているのだ。7名の理事のうち多数決の4名は絶対手放してはいけないと。しかし多数決をとると言うことは「経営責任を果たす」ということである。 学校経営は「片手間」でできる仕事ではない。「学校法令」を身に付け、「ややこしい教員」と互角に渡り合っていかねばならない。何より「胆識」が重要である。私は「私の後」を心配しているのである。浪速を破綻させてはならない。

2009年6月11日木曜日

6月11日(木)千早の壁画


・ 「多聞尚学館は千早城址の一角にある。」山道階段を15分も歩けば本丸跡だ。元弘3年(1333)というから今から676年も前の話だが、この千早赤阪村水分地区で生まれた「楠木正成公は後醍醐天皇に呼応」してこの地で兵を挙げた。「太平記」「建武の中興」の世界である。
・ 押し寄せる100万という鎌倉幕府軍をたった1000名足らずの兵で100日間も持ちこたえたのは「自然の地形を生かし、天然の要塞と言われる千早城」に立て篭もって、「ゲリラ戦」を繰り広げたからという。多聞尚学館はこの「戦場の跡地」に立っているのだ。
・ 確かに一度来て頂くと分かるのだが「周辺は坂道ばっかり」で多聞尚学館の平らな土地の周囲は崖である。地元の家々は多聞尚学館を見上げるような低地に群落しており、だから区長さんが「先生、多聞は地区で最も良い高台のところにあるのですよ」と言われたことがあった。
・ この「断崖絶壁」に大きな「壁画」が描かれている。「千早赤阪村千早の壁画」として有名である。元々は土砂崩れ対策として急傾斜地にコンクリート防災壁を作ったのだが「見た目が悪いから」と言ってこのコンクリート面に絵を描いたものだろう。
・ 壁画の名前は「希望の虹」だという。良い名前だ。今から18年前に多聞尚学館の前身である「村立多聞小学校の児童が描いた」ものだ。「3人の笑顔の子どもが一輪車に乗り、金剛山の山頂にかかった虹を昇って行く色鮮やかなデザイン」である。
・ 作成された当初は村民や登山客らの評判を呼び、一時は村の「シンボル的存在」となった。しかし「時は非情」でその「多聞少学校」は平成19年3月に廃校となり、所有者が我々に代わって「多聞尚学館」となった。壁画は土砂に覆われ、今では何が描かれているのか分からない。私も知らなかった。
・ 買収交渉の過程で当局は私に対して「あの壁画の部分に浪速の美術部の生徒さんで何か描いてくれると嬉しいのですが・・・」など、冗談交じりの話があったのだが、とにかく40度の急峻勾配で素人には近づくことも出来ない。
・ そうこうしていたら今朝の産経新聞だ。私はこの記事を見て「びっくり仰天」した。「多聞尚学館の体育館に飾ってある絵のデザイン」なのだ。そうなのである。「壁画の原画」は多聞尚学館にあるのである。分からなかったと言えば分からなかったのだが、なんとも「しまりのない話」となってしまった。「まさか原画がここに残っているとは知らなかったのである」。
・ 府の山岳連盟のメンバーらが13日と14日の両日にボランティアで清掃活動を行うとの記事内容である。土砂や汚れを取り除くため多くの村民が協力し「完成当時の鮮やかな色彩が現れる」ことが期待されるという。4月に一部を清掃したら「当時の絵柄が現れた」ので本格的となったと記事にはある。
・ 府の山岳連盟は大阪城の天守閣を清掃したことで有名であり、その登山技術を生かして欲しいとの村の依頼に対して「快諾」したと言うではないか。橋下知事も補助金削減ばかりではなくてこういうところに補助金を出して上げて欲しいものだ。
・ 作業は「13,14日とも午前10時から午後4時頃までで延べ90人ものメンバー」が登山用ロープで壁画を下りながらブラシやスポンジで洗い流すそうである。「命がけ」だ。水は「地元の消防団」が近くの川からくみ上げるほか、村民が食事の準備に「村総出での作業」になるとか。
・ このようなことを聞いては私も「知らぬ顔の半兵衛」を決め込むことは出来ない。記事を読んだ後、早速に村役場の建設課に事務長補佐を出向かせ「何か応援できることはないか、あるいは何か差し入れを」と申し出たのである。結果的に村当局は「有難い」と言われて「ボランティア用のペットボトル160本」を受け入れてくれるそうだ。「良かった。これで良い。」
・ 館内清掃とか最近では中学生農業体験の田畑がお借りできるようになった。地元には大変お世話様になっている。「地元住民の希望の虹の絵を蘇らせる」のに浪速も「お役に立ちたい」と考えるのが普通の感情である。多聞尚学館を売って頂いた「村の大きなイベント」だ。13日には村長以下総出でNHKも取材に見えるらしい。
・ 絵は事務長補佐に言って学校に持ち帰えらせ、18年間も体育館の壁にかかっていたので「埃だらけ」であったが、これを一度「綺麗に掃除」して、明日中に「本館の大ホール」など人目につくところに移し替える。大切にしなければならない。
・ 当日はこれを描いた当時の多聞小の児童、今は成人している人々も「自分たちの夢の輝きを取り戻す瞬間」を見学に訪れるという。村の建設課は「村のシンボルがよみがえる様子を見に来て欲しい」と言っているそうだ。
・ 私は直ぐPTA社会見学担当の教諭を呼んでこの13日に多聞尚学館を丁度訪問する「PTA」の40名をここに案内するよう計画の一部変更、と言っても,尚学館から見える至近距離にあるが、とにかく応援の意味も込めて行くようにした。
・ 同時に12日から14日まで「週末スペシャル」で学習合宿している「生徒90人」も時間調整をして「散歩がてら」に現地の見学に行かせることとしたのである。このような「ストーリーと現場」を見させることは勉強と同じくらい「心の栄養にとって重要」だ。
・ 多聞まで来ていてこのような催し物に顔を出さないという感覚は僕にはない。「多聞尚学館は千早地区の皆様のお陰」で我々のものになったのである。あの昨年12月18日の「地元説明会の雰囲気」をこれに出た教職員は覚えている筈だ。まして「原画の保有者」は我々なのである。館長も副館長も多聞の担当も教職員も「未来永劫これだけは忘れてはならない。」。

2009年6月10日水曜日

6月10日(水)塾長様対象来年度学校入試説明会


・ 昨日の「関西大学との連携調印式」は元々「堺のロイヤルホテル」で実施する予定で予約もしていたのである。しかし河田学長先生にご挨拶に伺ったところ、「学校を見たいし・・・」と言われ、変更したものであった。ご遠慮していたのだが「断然こちらのの方が良い、ラッキー!」と、嬉々として関大キャンパスから学校にいる入試広報室長に電話し計画の修正をした。
・ それで昨日は「時間差攻撃」として、「調印式を学校」で、「リアルタイム」でこのことを伝える「塾長様への学校説明会はホテル」でと決めたのである。河田学長のご講演が11時に終了と踏み、11時30分から説明会開始と計算した。学校からホテルまでは車で15分もあれば十分行ける距離にある。
・ 従って昨日の私以下入試広報室の面々は「舞台の掛け持ち役者」みたいで「一部隊の戦線移動」を見事にやってのけたのである。当日の調印式の模様を最初は「テレビの同時中継」で映像を堺ロイヤルに居られる塾長に見て頂こうと計画したが、さすがにこれは「予算」があわなかった。
・ 代替として「プロの映像制作会社に頼んでビデオ」を撮ってもらい、それをホテルに急いで運んで会食会場の大型スクリーンに「編集前の生映像」を映して貰ったのだが、正直言えば塾の先生方はご覧になっている方はほとんど居なくて、お食事と懇談に夢中のご様子であった。
・ 「塾長様対象の学校説明会」は私立学校にとって極めて重要である。浪速クラスの学校になるとほとんどの生徒が塾の先生の指導を受けており、塾長様に学校を正確に理解して頂かないと「死活問題」にもなりかねないのである。
・ 従って私はこの「説明会を大変に重要視」しており、着任後入試広報室には予算をほぼ倍増して「人も金も注ぎ込んで」きている。しかし幾らそのようにしても「センス」が無ければ終わりだが、本校のメンバーの良さはセンスもあり、なにより「誠意」が評価されており、そこが最大の売りポイントだと私も評価している。
・ 本日は過去最高の415名近い先生方がお忙しい中、来て頂いており、会場もホテルで最も大きな部屋に急遽替えたそうだ。これだけ多くの先生に来て頂いたことだけで「目的」は達したのである。「浪速と関大の連携の事実」が一度の機会で府内の塾の関係者にお伝えすることが出来た。
・ 嬉しかったのは例年なら来ていただけそうもない超有名進学塾であるH学園の塾頭先生など初めて参加して頂いた塾もあり、これも「関大効果」であることは間違いない。とにかく私はこの説明会には何時も多くの名刺を持って行くのだが今日も「名刺交換」が頻繁で直ぐ無くなってしまった。
・ 私からは「関大連携の内容とその意義」「多聞尚学館の活用」「来年度からの土曜日の使い方」の三つをからめてお話させて頂いた。橋下改革による私学助成の削減と、公私比率の見直し問題等の話題を盛り込みながらのお話は何時も歓迎されているみたいである。
・ 1時間で全ての予定は終わり、皆さんは別の会場に移っていただき、「ビュッフェスタイルの昼食懇談会」である。このホテルは中々味が良いので有名であるが、昨日驚いたのは先生方は何方もお帰りにならず最後まで会場に居てくださったことだ。これも嬉しいことであった。
・ だから何時もは料理が沢山残って、それを教職員がお客様をお見送りした後にご相伴に与るのだが昨日はほとんど残っておらず、私は全員にホテルのレストランから「カレーライス」でも取って教職員に食べて貰うように事務長に言って学校に戻った。
・ 自分たちは食べずにお客様の接待で一生懸命働いた教職員に「残り物」と言うわけには行かない。今度から教職員には別に作って貰い、別室に取っておくようにしなさいと今朝室長にも言ったのである。
・ お客様も3年目となると顔なじみなども出来て「アー、先生久しぶりー」などと叫んだりして「同窓会みたいな雰囲気」にもなる。中には思い出せない人もいたりして、その時は「知ったようなふり」をしながらお話を合わせねばならない。
・ ある若い塾の先生とお話したら夕方には以下のようなメールが入っていた。このような人間関係もあるのである。
“浪速中学校・高等学校理事長 木村 智彦先生
お世話になっております、八尾の○○○○ゼミナールXXです。先ほどの懇親会ではお話をさせていただきありがとうございました。一昨年に私が以前勤務していた塾で社員を相手に先生がお話をしてくださったのをきっかけに「行動力の大切さ」を改めて実感し、独立に向けての後押しをしていただけたように思います。いろいろな職場で働いた中で、「ここを変えればもっといい塾になる」という考えがあちこちにあり、それを形にするために○○○○ゼミナールという塾を立ち上げ、お蔭さまで順調に生徒数を増やすことが出来ました。今日の貴校の説明会をお聞きして、「新生浪速の第二章」という言葉に非常に楽しみを覚えつつ、○○○○ゼミナールにとっても「第二章」と言える時期であり、親近感がわきました。今日せっかく木村先生とお会い出来たので、お忙しいと思いますが御礼をと思い、メールをさせていただきました。是非、一度実際に新しい浪速中学校・高等学校を体験できるようお伺いできればと思います。では、今後とも宜しくお願いします。
追記:先生と握手していただいてパワーをもらった気がします。ありがとうございました。また、貴校の紹介を当塾のホームページで掲載しようと思います。ささやかですが、ご協力できればと思いますので、原稿が出来た際はご報告させていただきます。”
・ 塾長様説明会における私のあいさつ文は「ホームページの理事長校長公式メッセージ」に広報情報委員会からアップされている。今年から勤務してくれている常勤講師のM先生が中々上手くまとめてアップしてくれている。「何しろ仕事が速い」。学校にも来るのが早い。どうも私と競争になっているみたいだ。6時45分には私は席に居るのだが彼も7時前には来ている。
・ 「関西大学広報部」はさすがだ。もう公式サイトに昨日の調印式がアップされている。時間を見ると昨日の14時18分だ。大学に戻ってすぐされたのだ。「お主、出来るな」という感じだ。しかし本校もトップページにアップしてくれていた。これも素晴らしい快挙である。
・ 入試広報室も多聞開館式から昨日まで本当に大変だったと思うが「立派にやり遂げてくれた。」合わせて広報情報委員会も「よくやってくれた」。学年主任も「良い仕事」をしている。「学校が上手く回り始めた」。「嬉しい。」こうなると体の調子も何故か良いのだ。