2009年12月2日水曜日

12月2日(水)授業評価と授業参観







・ 「授業見学」というのか「授業公開」というのか「授業視察」というのか言い方は色々あるが「授業参観」がどうも良さそうである。参加して観察するのだ。要は自分の授業を他の教員に観てもらって「意見を聞く」ということが大切である。
「唯我独尊」を避けるためである。毎日同じ事をやっていると「人間の悲しさ、弱さ」で「自分の授業が一番良い」と思うような「自惚れ」はいないと思うが「これでよい、仕方ない」と思うようになるのは「人間の常」である。
・ 自惚れ人間はいないと書いたが、「教師と言う職業」を選択した教師といわれる人間の特徴は「プライドが高い」とは世の一般的な見方である。プライドは悪いことではないが自信過剰は困る。大学卒業後すぐ「先生、先生」と呼ばれ生涯先生と呼ばれる人たちである。
・ 社会はいまだ「学校の先生」に対して「尊敬のまなざし」を失ってはいない。これは「世界共通の概念」だと思う。厳しいことを言っているが私もその例外ではない。それくらい「学校の先生の社会的地位はまだ高い」のである。
・ 従って相対的に「教師の処遇」は一般の勤労者に比べて高い。そして声高に「もっと下げろ」と言う声もまだ少ない。私は「教師の処遇に手を付けるのは最後の最後だろう」と思う。それは社会全体が「教育の重要性」を深く認識しているからだ。
・ 時々飲酒運転、わいせつ行為とか万引きとか「教員の不祥事」が新聞などで大きく報道されるがこれらは確かに比率としては伸びてはいるが全体から見ればごくごく少ない数値で圧倒的に多い先生方は「一生懸命」頑張っている「真面目な先生」である。
・ ただこの「一生懸命」が時に「魔物」で、自分はこれほど一生懸命頑張っているのだから「問題は無いと錯覚」することである。従ってこの錯覚を是正する「強制的手段」を持たねばならない。
・ 「自発的に気づく」などはこれこそ「言うは易く行うは難し」である。強制的啓発は外部の力を借りて「謙虚に自らを振り返る」ことである。強制的啓発の手段にまず「生徒からの授業評価」がある。
・ 肝心の生徒は「自分の授業をどのように観てくれているのだろう」と思うのは教師として「素朴なそれでいて原点の気持」であろう。このように思わない先生は先生とは呼べない。当たり前だ。生産者が消費者の声を聞くのと同じことである。
・ 本校は昨年から「生徒の授業評価」を始めた。今年も既に行った。現在詳細分析を教務指導教諭の手で成されている。これらはネットで一部を公開する積もりである。勿論保護者にはもう少し詳しいものをお伝えする。「授業料に含まれている我々の責務」だと私は考えているのだ。
・ もう一つはベテラン教諭による「授業参観」である。先には国語科の常勤講師の先生方の授業観察をして貰った。このことは既にブログに書いている。今回「英語と数学について実施」した。
・ その結果が上がってきた。今朝詳細報告を受けたのである。大変興味深いレポートであった。二つの意味があるのだ。当然若いそれも20歳台の先生であり、経験不足はゆがめない。それを「ベテランがどのように観察するか」ということに私は大変興味があった。
・ 次に観察するベテラン教諭が「どのような視点」で若い先生方の授業を評価しているかと言うことも大変関心があった。ベテランと言われる教諭が「今日的若い先生の授業」を観て「内心」がどのようなものになるかと言うことである。
・ ベテランはベテランの「味わい」がある。当然授業は目の前の生徒を見ながら「変幻自在」に進めていく技量は有しているはずであって、それが無ければベテランの意味はない。単なる「おっさん教員」でしかない。
・ 又ベテランになると技量はあるが、徐々に技量を見せる場面に疎くなると言うかその緊迫感から離れていくような気がしてならない面も私は感じるのである。「気力」がなえてくることもあろうし、「マンネリ」に陥ることもあろう。
・ 私は大きな理由として「教えると言う行為以外への関心」が加齢と共に大きくなってくるからだと思っている。「家庭での問題、家族の問題、自分の趣味の問題、政治信条の問題、組合活動、部活動への傾斜」などなど教員を取り巻く「誘惑の環境」は年とともに大きくなってくる。
・ 政治信条や組合活動はあって当然であるが、こればかりに気を取られていたら「技量を上げる時間が取られる」のは当然である。だって人間は誰でも24時間しか持ち時間はないからだ。
・ 私が心配しているのは「クラブ活動」である。正直驚いている。「なんで学校の先生はクラブ活動にあそこまでのめり込むのか」という疑問である。公立4年間、私立3年間校長をやってきたがこの思いは消えることはない。
・ 体育科の先生がご自分のご専門の競技を部活動を通じて指導するのは「至極ごもっとも」なのであるが、国語や数学や英語の先生が部活に走り回っている姿を見ると「微妙な複雑な感じ」になる。「貴方は英語の先生で採用したのであって相撲部の指導で採用したのではない」と言いたい時もあるのである。
・ だからこの学校に来て以来私は「授業第一」と言い続けてきた。授業、講習、補講を後回しにして部活動を優先させる行動は「決して許さない」と。保護者から頂いている「授業料は授業の対価」であって部活動指導の対価ではないと頭を整理しているからだ。
・ 話を戻そう。ベテランの教諭による「授業参観の講評」は私と副校長が大体想像していたイメージと一致していたが、英語科では我々の一押し講師が実は別の講師であったりとこのベテラン教諭は講評するなど私には大変参考になったりした。
・ 外部からの刺激として「生徒による授業評価」「ベテラン教諭の授業参観と講評」は積極的に捉えなければならない。そして次は「研究授業と公開授業」だろう。これについては「今後どうするか今検討中」である。
・ 「授業の質を高める」、学校の形が出来た今、最も我々が注力しなければならないことである。このことは間違いなく「多聞尚学館」での指導内容へと繋がる話である。本校の戦術は「授業と多聞での特別講習の組み合わせ」しかない。ここを完成させていきたい。
・ 浪速に入れば「偏差値を10は上げてくれる」ということを我々の約束としなければならない。「学校は授業」である。この授業がしっかりしていないと幾ら放課後講習や週末スペシャルを行っても効果は無かろう。
・ 教師一人ひとりが自分の「授業の質」を上げるように「謙虚」に取り組んで欲しいのだ。部活動だけでは私立高校は生きてはいけない。桐蔭、清風、桃山などを見よ。進学も部活も両翼を張って幅が広い。負けてはならない。我々にも出来る筈である。