2010年5月12日水曜日

5月12日(水)その2:歓送迎会と理事





























・ 元IOCのサマランチ会長と同じで四六時中私は頭を回転させて「仕事のこと」を思い、考えている。学校の「経営のこと」「建設工事のこと」「生徒のこと」「教職員のこと」等々「とにかく全て」である。それも尋常の考え方ではない。
・ 「あれこれと脳への血流」を回しまわって表から裏から、上から下から視点を変えて思い、考えているのである。それで「腹が立ったり」するのである。「思わず、考えなかったらどれだけ気が楽になるか」と思うこともある。
・ 理事長と言う職位と校長という職位を兼務しているから当然の事ながら「考える対象は全て」であって「これは外す」というものは基本的にはない。又学内理事は私一人だから日々の経営と言う視点では「日常相談する相棒」はいない。
・ 重要なことは名誉理事長と理事長職務代理に私から「相談を持ちかける」ということで対処している。この3人が常務理事会という具合である。従って他の4人の理事には随時電話やファックスで情報を流したりするが、最後はやはり「理事会」である。
・ 当然ながらこの理事会を重要視しており、「全ての情報を開示して議論して貰う」ように「徹底」している。「中味もさりながらページ数も膨大な資料を用意」して理事会に臨むのである。
・ そこでは私は「議長」として理事や評議員を指名して強制的に「意見を求めたり」している。短い時間ではあるがそこで「見識に裏づけされたご意見」を私は期待しているのである。それが出来るような人が元来は理事や評議員になっていないといけないのである。
・ おかげさまで「浪速理事会と評議員会は大変に活性化」している。さすが神職の方々である。特に「出席率」が極めて高くなってきた。4年前までは特に評議員など数名であったが今やほとんどの評議員が出席して良い意見を出していただいている。
・ 小さくとも一つの学校だから誰かが言ったように「一国を統治」しているようなもので「生半可」な対応では「事に当たっての判断」など出来ない。「真剣勝負」である。従って時々学校に来る程度であれば基本的に外部理事が即座に解決可能策を打ち出せることは多くはない。
・ 少なくとも校長は当然として、理事長と言えども「片手間で出来る仕事ではない」というのが私の哲学と経験則から来る考えである。理事長が学校に来たり来なかったりする「名目上の理事長」では学校を危険に追いやる要素が出てくる。
・ 理事長が名目上の理事長、何かの仕事との兼務者であっても「上手く行っている学校はある」と思うが、私の調査によればそれほど多くはない。逆に言えば「有力な私立高校は理事長・校長兼務で常勤のフル勤務」である。当然だと思うのである。
・ 理事長と校長が独立している場合でかつ常勤の理事長でない場合は「校長の資質」が極めて重要になってくる。公立高等学校が曲がりなりにも上手く回転しているのは「教育委員会」という組織が機能しているからである。
・ 私学における理事会は教育委員会の機能を負っており、理事長は教育委員会の委員長と教育長みたいなものであるから、この理事長、理事会が機能していないということは「勝手気ままに学校が動く」ということになる危険性があるということなのである。
・ 「私立学校法」では「校長は理事でなければならない」とあり、校長に「経営への参画と責任」を負わせているが実はここが難しい。公立高等学校の校長は「校務運営権」だけが規定されており「経営と言う概念はない」。全体を含めて教育委員会が負っていると考えるべきである。
・ 最近はそれでも「校長は学校の経営と言うことを考えるべき」「校長のリーダーシップ発揮」とかで学校改革、教育改革を迫って叫ばれては来たが「教員人事権」「予算編成権」もないような「内々尽くし」の中で校長一人でそう簡単に行くものではない。
・ あくまで「校長になった人の資質」で学校の状態は変わる。それも校長が変わった瞬間に直ぐ変わるものである。そして問題なのは「良い方向へは変わらず悪い方向へ直ぐ変わる」のである。
・ 従って理事長や専務理事、常務理事という学内理事が居ないとなれば私立学校においては「理事たる校長の好きなようにやられる」のであってそこに危険があると私は言っているのである。
・ サマランチ会長は「足して二で割る妥協が得意」とあったが「時には妥協しても良い」と思うが「何時もかつも妥協」では物事の改革は進まない。私は言う。大体「校長は妥協で生きている」と。
・ 突っぱねると「組合の反動があって他の校務運営に支障を来たす」からこれは避けなければならないと考え、一方教育委員会からの「経営サイドからの指示も従わねばならない」となって、「10の内半分は妥協、教員と教育委員会双方の顔を立てる」というのが「出来る校長」の証明なのである。
・ 団体に属する教員も「まあ、校長も苦労しているし、今回の申し出はここまでは了としよう」と同情されたりして協力を得る校長が立派な校長となっていくのである。そして偉くなっていくのである。
・ 私学もこの構図は「似たり寄ったり」であるが、このような校長であると私立高校の場合は致命傷的となることだ。公立は「潰れることはない」。「教育委員会が潰さない限り潰れることはない」が私立は「生徒減少という奈落の底」に落ち込んでいく。
・ 組合教員と妥協し、人件費の削減には手を付けず、常に「学校のリフレッシュ」をしない、毎年毎年同じ事の繰り返しのような学校では「飽きられ、疎まれる」のである。「私立高校の厳しい定め」である。
・ デパートやスーパーと同じである。車のモデルチェンジと同じなのである。ハウスメーカーも家を求める人に常にモデルハウスを更新していかねばならないのである。私立学校も本質に違いはない。そこに「私立学校の理事会の役割」がある。
・ 「教員上がりの校長」を含めて教職員は基本的に口では「革新を叫ぶ」が心身ともに「保守的」であり「変化を好まない人々」である。どちらかといえば「変化、変革を悪いこと」のように考える人々である。
・ 案外知られていないが私立高校の校長は頻繁に替わっているのである。これは間違いなく「理事会が機能している証拠」であって「校長の首を簡単に挿げ替えるくらいの強い理事会」でなければ「学校は進化」などしない。
・ 学校の本質も分からず、教育法令も知らず、表面的なことに捉われて、あまつさえ「時々学校に来たり」などでは間違いなく「教職員団体に担がれた校長の恣意」によって「学校は劣化」していく。
・ 個人がどうのこうのではなくて「学校という入れ物とそこで働く教職員の業務内容という事態・状況」がそのように歯車を回すと私は8年の校長経験と3年の理事長経験で言えるのである。