2009年7月5日日曜日

7月5日(日)楠木正成の生き方















・ それにしても先月のPTA社会見学会で訪問した河内長野市の「観心寺」のご住職「永島龍弘師のご法話」は大変良かった。何故か私には心に響いて残っている。それを今でも「反芻」しているのである。ご住職は言われた。大楠公の生き方が今もって「日本人の心に響く」のは「潔さ」だと思う。正成公ほど戦後評価が変わった歴史上の人物は居ないが彼のことを「非難する人間はいない」と。
・ 以上の5行の文字を最初に言葉にして言われたのだが「無性」に私の心に残っている。そしてこれは住職に言われて初めて得心し理解したのだが、正成と言えば一般的に南河内の「悪党のイメージ」であるが「若い時から学問に勤しみ教養を積んだ人物である」と断言された。この「」という言葉が良い。
・ そうか、正成は「教養人」だったのだ。確かに「太平記」の世界が描く正成像は地方の土豪で、それもかなりの悪党的なイメージ先行であるが、そうではなくて、ゲリラ戦法で敵をかき回した戦勝が拡大宣伝されこのようなイメージに繋がったと老師は言われた。私流に言えば「ばさら」であったのである。
・ 確かに当時は京都朝廷から頂く「位階」が物言う世界で楠木正成が正五位とかの位階を持っているはずが無い。日本人はこの時代から社会的な勲位が物言う世界であったのだ。要は正成は「無位無官の田舎土豪」であったのだ。しかしこのような人物が「近世日本の夜明けの精神」に大きな影響を与えたということが素晴らしいと思うのである。歴史は面白い。
・ まず楠木正成公、尾張の水のみ百姓から関白太閤まで上り詰めた豊臣秀吉、そして晩年は辛かったが小学校卒で内閣総理大臣になった田中角栄などがいるが、今日まで後世に大きな「精神性」を残しているのは「大楠公だけ」ではないか。単なる「立身出世物語」や「一族物語」ではないのだ。
・ 結局秀吉の晩年も田中角栄氏も死の床は寂しいものだったと思う。しかし楠木正成は自ら「死場所」を決めてそこで散った。この「違いが後世に大きな差」をもたらした。このような「男の死に場所、引き際」は極めて大切であり、そこに感動する。
・ 楠木正成は8歳から15歳までここ「観心寺」で学問を修めている。今もその学問所が遺跡として残っている。この観心寺で生涯に最も大きな影響を与えた二人の人物との邂逅を得たとご坊は言われた。滝覚坊と大江時親である。
・ この二人に師は四書五経、宋学、国史を教授し中でも正成に大きな影響を与えたのは弘法大師請来の「四恩の教え」だといわれる。四恩とは国王、父母、衆生、三宝に対する四つの恩である。若いころに徹底的に今日で言う「道徳教育」的なものを徹底的に叩き込まれたと私は理解している。
・ 後醍醐天皇が鎌倉幕府執権の北条討伐を目指すが、失敗し1331年京都を脱出して笠置山に向かう。「元弘の乱」の始まりである。天皇は夢の中で正成に会い「この辺に楠木と名乗る武士やある」と下問し正成が召しだされたとあるが、それは後世天皇と河内の田舎土豪い邂逅を象徴的に印象付けた物語であろう。
・ 観心寺の正成の「首塚」の横には「非利法権天」の石碑があるが「観心寺にはこれと同じ文字の軍旗」が保存されている。説明するところによれば、「非は利に勝つことあたわず、利は法に勝つことあたわず、法は権に勝つことあたわず、天は明にして私なし」の意味である。
・ 意味は「至誠天に通ず」というところであろう。つまり真実に基づいて行動すれば必ず誠は天に通ずるということで楠木正成の信念そのものであった。1332年赤坂城を拠点に護良親王とともに戦うが破れ、その後吉野で挙兵、赤坂城を奪還しその奥に現在の「多聞尚学館」周辺に「千早城を築き」徹底抗戦する。
・ 幕府軍は「高さ二町許にて一里に満たぬ小城なれば、何事のことか有るべき」と楽観していたが100万という大軍(実際は30万程度か?)を翻弄し、「四方の坂より転び落ち、落ち重なって手負い、死をいたすもの、一日に五.六千人に及べ」とある。
・ 永島老師は言われた。正成はこの戦に負けることは分かっていたが「勝つことあたわずとも負けてはならず」と徹底抗戦し、さすれば全国で天皇方の武士が蜂起すると読んだ上での100日間の篭城作戦であったという。
・ そして「建武の中興」はなされたのである。この辺を「知略」に優れたというのであろう。しかしながら天皇執政の建武の新政も公家偏重の論功行賞で足利尊氏の離反などわずか2年半で崩壊の道をたどることになる。
・ 後に新井白石は「功臣においては正成を第一とすべし」とまで言わしめたが恩賞は河内摂津の両国で余り恵まれたものではなかった。それに対して正成は「忠孝を尽くしたまで」と恩賞は求めなかった。ここが「重要なポイントで尊敬する点」だ。
・ そして正成の「壮絶な最後」にご住職の話は進む。戦いは足利尊氏との天下分け目の戦に及ぶが一旦は打ち破り尊氏を九州に追いやるも、時運味方せず、正成は最後の戦いに兵庫県「湊川の合戦」に向かう。この時の長子正行との別れが明治時代になって「青葉茂れる桜井の」の歌になった。
・ 新田義貞の退路を確保し、6時間に13回の激闘を繰り返し、総勢700余騎がわずか73騎になり「もはやこれまで」と弟と刺し違えて自刃する。その最後は「太平記」に詳しい。涙ながらには読めない。1336年5月25日正成46歳の男盛りであった。
・ その「首級」は当初京の六条河原にさらされていたが敵将尊氏をして「天下無敵の勇士」として故郷の千早赤阪近くの楠木家の菩提所、ここ「観心寺」に送り届けられて「大楠公首塚」として今に残る。戒名は「忠徳院殿大圓義龍大居士」とあり、後醍醐天皇から賜ったものと言われる。
・ 桜井の別れで長子正行(まさつら)を呼び寄せ遺言として命を惜しんで尊氏の軍門に下ることなく一族郎党一人でも生き残っている間は最後まで戦って戦い抜くのだと「七生報国」を教え、実際楠木一族は一族全て死に絶えるまで壮絶な戦いを繰る拡げることになる。実際、千早城が落ち長男正行とその弟の正季が戦死したのはそれから60年後であった。
・ 日本の歴史上これほど「美しい死に方」、しかし「悲しい死に方」をした一族は他にはない。日本外史をまとめた徳川光圀は「死ありて他なかれ」と書き、荒れ果てていた正成の墓を神戸の「湊川神社」に創建し、自ら「墓標」を書いている。
・ この正成の生き方、死に方がその後幕末勤皇の志を有する若い武士に大きな影響を与え吉田松陰、西郷隆盛などは「大楠公遺訓」として「明治維新の原動力」となったという。
・ 私が惹かれるのは1300年代の公家文化全盛の時代に地方の土豪と、おそらく天皇公家文化に良いように利用された面はあるかもしれないが「それが分かっていながら」時代の流れを読み取って「忠孝の道」をただ一筋に行かざるを得なかった「悲しさ」と端然としてその道に進んだ正成の「潔さ」に惹かれるのある。
・ そして南河内に「教養を積んだ武士(もののふ)」がおり、死後800年立っても「生き様に批評はあっても非難がない」という素晴らしさに涙するのです。「青葉茂れる桜井の」の歌を小さい時から口ずさみ、尊敬して止まない楠木正成公の幼名「多聞丸」を戴く多聞尚学校を頂戴し「多聞尚学館」として本校の校地の一部と出来たのも何か私は「大楠公とのつながり」を感じるのである。
・ 楠木家の家紋、多聞小学校の校章、建水分神社の神紋、湊川神社の神紋「菊水」をそのまま私は多聞尚学館の「館紋」としました。戴いたのです。そして今私は「大楠公の馬に乗った像を多聞尚学館に置きたいと強く念願」しているのである。「なんとしても欲しい」。
・ 今全国にある実寸大の大楠公の馬上の像はまず「皇居」、「湊川神社」、そしてここ「観心寺」、それに「旧千早小学校」にあります。この廃校となった千早小学校の楠木正成公の銅像を私は時々拝観に行きます。
・ そして私は浪速中学校高等学校の生徒たちに「君たちが学んでいる多聞の由来」を話して聞かせ、「日本の偉人の存在」を伝えていくのが我々世代の重要な役目だと思うのです。 こういうと直ぐ「天皇の為に死ぬ生徒を作るのか」という輩が居ますがそうではなくて今「我々が生きている現代はある日突然出来たものではなくて長い、長い歴史に裏打ちされた」ものがあり、その上に我々は立っているという認識が重要だと思っているのです。
・ 明日の日本を背負う子どもたちに「日本の歴史」を教えなければなりません。あらゆる分野で活躍された「偉人の存在」を我々は伝えていかねばなりません。どう受け止めどのように判断していくか、それは子供たちが決めていくことです。
・「判断力」は時や成長とともにこれまた成長していくものだと思っています。判断力の根底には「知識」が必要です。知識に裏付けされた物事の見方、それを人は「教養」といい、教養が生きていく過程で「見識」に成長していく。今「日本人のアイデンティティ」が失われつつある危険性を感じているだけに私は今こそ「日本の歴史」に学ばねばならないと思うのです。