2010年6月4日金曜日

6月4日(金)「サービス精神」続考






















・ 昨日のブログに続いて「サービス精神」について論述していきたい。私は「サービス精神が極めて極めて旺盛」だと自分では思っている。これを分かって呉れている人は「木村の理解者」である。これが分からないようだったら「人を見抜く目」はないとまで言っておきたい。
・ 本校の教職員はどれくらいこのことが分かっているのかそれが問題である。私は物凄いサービス精神が旺盛である。生まれつきかも知れないが、60歳を過ぎる今日まで「サービス精神旺盛ただ一筋」で生きてきたと思う。「生まれつきの性格も育った環境も」そうであったのかも知れない。
・ しかしこのサービス精神が旺盛というのは「疲れる代物」なのである。時々サービス精神のかけらも無い人とあったりすると「この人は幸せな人だなー」と思ったりする。サービス精神が旺盛ということは「目配り・気配り・心配り」に注意しているということである。このことが疲れるのである。
・ 昨夜のブログではないが目配り・気配り・心配りだけして何もしなかったら意味は無い。具体的な行動が「面倒見を見る」ということなのである。ここに繋がって初めて意味があることになるのである。
・ しかし実はこれが問題で「サービス精神が旺盛な人」は、逆にその反動も大きいということなのである。反動とは、サービスを提供する対象に対して「裏切られた場合」は「こころ穏やか」ではなくなるということであろうか。
・ 決して相手に対して「同じサービスの提供を要求しているのではない」が、自分がここまで気を使って、心を配って面倒を見ているのに「伴う行動があやふやだったり見当違い」だったりすると時に我を失うように「落ち込み、腹が立つ。」それはないんじゃないのって!
・ しかし世の中にはこのような人間が多いものだと最近ではいささか「達観」してきている自分に気付く。腹が立たなくなってきた。相手は「自分が面倒を見られている」とは感じていないのだから、腹を立てても仕方がないのだ。
・ そういう人間は 「無視すれば良い」と思うようになったのである。無視できればこれほど楽なことはない。腹など立たない。給料を上げる必要も無ければ手当てを配慮する必要もない。「放っておれば良い」のだから、これほど気の休まる楽なことはない筈である・・・。
・ ところがこの無視をするということが簡単には出来ないから心のうちに「葛藤」が生まれる。「幾ら言っても直らない者は直らない」事も分かっているのだがそれでも私は「気配り・気配り・心配り」をしてしまうのである。そして疲れるのである。
・ 本当に これは「疲れますよ」。「直したふり」でもしてくれれば良いのだが、それが出来る人は最初から「分かった人」である。要はそこさえも分からない人が居るのが現実である。そしてこれは年令には関係ないというのが私の意見だ。
・ 若い人でも人に気遣いし、礼節ある対応、頼まれれば嫌といえないフットワークの良さなどを兼ね備えた若者は多い。ベテランに比べて多いかも知れない。問題はベテランでこういう中に「どうしようもない」人もいる。

・ 「トップはサービス精神が旺盛」でないといけないというのは私の意見である。企業の社長さんも学校の理事長も基本的には同じことである。サービス精神があればこそ「常に組織は脈動」していく。私にとって「サービス精神とは自分を動かすエンジン」である。
・ 企業では大企業と中小企業では当然差があるが概して中小企業のトップほど「サービス精神即ち面倒見の良さ」は高いのではないか。テレビコマーシャルにあるあの財津一郎演じる中小企業の社長にイメージがだぶつく。「従業員のことを何時も考えていますよ!」というあれだ。
・ 「学校長は常に学校に居て、生徒・教職員、保護者へのサービスを考えておれば良い」。その回転がスムースであれば「良い学校、良い校長」となる。「どこにいるのか分からないような校長」「何時も出かけているばかりの校長」などは失格だろう。
・ 「建設の槌音」の聞こえない学校というのは「設備のリフレッシュ」を怠っている学校で、資金がどこかで消えているとまず疑った方が良い。消えていく先は「教職員の給与」と「株や金融商品売買などの本業以外への投資」である。
・ 常に生徒の為に「教育環境を整備」していかねばならない。そしてそれを「基本金」として将来のために蓄積していかないと私立学校の「経営は脆弱」となる。今日の生徒保護者の感覚は「汚い学校、古臭い教室」で学ぼうとは思わない。
・ 特に私立学校ではそうである。モダンで清潔で広々とした校舎や教室が「売り」であり、そこを目指さなければ学校は衰退していく。自分の給与を上げることばかり考えて設備対策に回さなかったら結局は「我が身に降りかかってくる火の粉」なのである。
・ 即ち生徒が来なくなる学校に朽ち果てるのである。それは教職員の「整理解雇」を意味する。現実に大阪府南部の某私立高校でこの整理解雇を巡って学校法人と複数の教員が訴訟騒ぎとなっているのが現実の姿なのである。本校も「明日は我が身」と思わないといけない。

・ 学校からの生徒保護者への「サービスの提供」は間違いなく学校に「跳ね返って」くる。特に保護者との関係においても顕著である。3年前に学校改革に着手して以来、実は「最大の応援団はPTA」であった。
・ 意味も無い毎月17日が学校休業日になっていたのを即刻授業日にしたことでPTAは動いてくれた。「浪速改革の門と名づけた正門の新設」に多額のご寄付を頂いた。そして今私が堺のグランドに通う時に使っている「新車のホンダオデッセイを寄付」して頂いたのである。
・ その後「多聞尚学館の開館」や今度の校外グランドでも「桜の木36本」を寄贈して頂ける。又忘れられない恩義は現3年生の「修学旅行がキャンセル」になった時も「温かいご理解とご支援」を頂いた。どれだけ助かったか分からないのである。
・ 学校を舞台に生徒を中心にすえて「学校のサービスの提供とPTA保護者からの支援の提供」がバランスが取れた状態が望ましいのであるが本校ではまさにそのような展開になっているのである。
・ 「モンスターペアレンツ」などという失礼千万な言い方があるが、本校にはそのような保護者はいない。学校側が生徒へのサービスの提供に自信がある限り、クレームは無い。有っても一回の説明で終わる。大体の場合は「説明責任の不足」であるか「対応が遅い」のである。特に「すばやい対応もサービスの一つ」なのである。
・ 又学校側がPTAに対して「要望」を言えるようにならねばならない。私は着任以来このような「関係作り」を目指してやってきた。そして今や本校のPTAは絶対的な本校応援団になって頂いているのである。
・ PTA会長や役員、保護者にも我々は目配り気配り心配りして対応していかねばならない。それは「我々の仕事」であり、「私立学校に勤める教職員の最大のサービス」なのである。結局は「生徒の面倒をトコトン見る」ということなのである。