2009年3月11日水曜日

3月11日(水)OJTと職場風土

・ 今、東京のある「教育研修所から論文寄稿を依頼」されているのだが、そのタイトルは「私立学校におけるOJT」である。OJTとは「オンザ・ジョブ・トレーニング」の略称であるが、実はこれが学校社会では難しいのである。
・ 「人材の教育訓練」は「OFF-JT」だけでは限界がある。「研修会」などに出てもそれは「他人の成功話を聞くだけ」で自分のことではないからだ。「気付かせ」でしかないのだ。気付いても「よう、やっとるなー!」で終わってしまえば「それで終わり」で組織には何も残らない。
・ 人間は「知らないことを知ったことで幸せな気分」になるが組織にとってはそんなことだけでは何も意味はない。「知って行動して成果を残して」、初めて研修会参加の効果が出てくる。大体普通の人間は知っただけで具体的には行動に結び付けようとしない。それはそこからが「しんどい仕事」だからだ。
・ 「組織貢献」に繋がることで自分の「自己実現」はなされる。従ってあくまで自職場での実際的業務を通じて人間の育成は為される。これがOJTである。トレーニングと言ってもプロの仕事は毎日が真剣勝負だから、OJTが「模擬試験」であってはならない。
・ 企業社会は「階層社会」だから平社員の上の係長が部下に何も指導などしなくとも更に上級の課長が「何だ、あれは!」と直ぐなるし、ついでに課長は係長に「あいつ何とかしろ、教えてんのか!」とすぐ出てくる。 また「たとえ1年先輩でも神様」みたいだから絶対服従とは言わないが先輩を頼りにし先輩も後輩を可愛がるものだ。
・ 部下に関して上司から何か言われでもしようものなら大変だから係長は目を凝らして新入社員を見ている。課長から「係長は部下をよく育てていない」は出世の致命傷になるからだ。同じようなことは部長から課長への指導にもある。非常に上手い階層なのである。
・ そしてそれが自然と「職場風土」となっていくのだ。この職場風土というのが極めて大切である。しっかりとした会社は「誰が教えなくとも」自然に、言ってみれば「職場の空気」や「周辺から学んでいく」ように完成されている。
・ ところがこの辺が「だらしない職場」であれば「先輩のやる言動」を見ていて、若い人が「あれで良いんだ」と思い込んだら、一貫の終わりで、逆スパイラル現象で職場はドンドン悪くなっていく。昔、公立学校時代にある府教委の幹部が言っていたことを今でも私は忘れない。
・ 今、府教委は教員の新規採用に躍起であるが、勢力を注いで採用した新人が職場配属して半年も経ってみると「もう半年前の姿は何処にもない教員がいる」というのだ。面接などでは素晴らしかった新採の教員が「配属先の風土に染まって」しまい、たった半年でいかにもだらしなくなっているのに「愕然」としたというのだ。それくらい職場風土は急性で罹患する。そしてそれが慢性病となり、じわじわ「学校を壊していく」のである。
・ 本校でも私の耳に良く入ってくる。「ベテランの先生は直ぐ帰宅する。」残っているのは若い先生ばかりで、信じられない話だがベテランが若い先生に「早く帰ろうよ」と自分の帰りが早いことへの正当化作業として進めるような教員がいるという。帰ってよいから「黙って帰れ」と言いたい。
・ 良い風土が出来ていないならそれは「作り、醸成」していかねばならない。しかし口ほど易しいものではない。基本的に部屋に閉じこもり、接触の機会の少ない校長では限界がある。
・ 最も有効な手立ては何時も側にいる「ベテランの教師が若い教師を指導する」ことであるが、学校というのは企業や行政の公務員と違ってベテランになればなるほど「素晴らしいものとだらしないもの」に分かれる比率は高いと私は観ている。
・ 加えて学校は「鍋蓋社会」と言われて教員間には差がなく、校長もフラットな「鍋の蓋のつまみ」と称されているくらいだから推して知るべしである。「同僚が同僚を指導するなど基本的には有り得ない世界」と思った方が良い。
・ それでも昔は「カリスマ教師」とか「卓越した教科指導の先生」とか「人格者先生」とか色々居たのだが、それも随分少なくなってきている。「校内試験問題」など若い先生などは簡単に作らせてもらえなかったらしい。それくらい「権威」があったのである。
・ 教員というのは「資格職業」で国家が認定した資格を有し、英語、数学、国語など教科単位で「専門性」がまったく異なる。「専門店の社長の集まり」と考えた方が良いから、教員の集まりは「組織体」というより「連合会」「協賛会」「互助会」的で社長・校長を頂点にする「ピラミッド構造」ではないのである。
・ その文化が「学校改革を妨げた」との反省から国や地方行政団体は校長と教頭以外に主幹、首席、主席、指導教諭とかの「中間管理職位」を設けて教員の「管理強化」を図ったのである。即ち「上司」を作ったのである。「同僚から言われたら腹が立つが、上司なら仕方がない」と言ったところだろう。
・ 教師は自分の専門については良くやるし、勿論例外はあるがさすがプロらしい先生は多い。ところがだ。こと社会的な常識となると欠落している人が多いのも特徴である。「学校の常識は社会の非常識、社会の常識は学校の非常識」と教育の本には必ず書かれている。
・ 世に先生といわれる「学校の先生、病院の先生、議員の先生」などはやはり一般人と少し違うという人は多い。最もこれらは全ての人ではなくてあくまで「比率の問題」だろう。先生と言うお方はやはり立派な人間が多い。
・ 本当は「副校長とか教頭が部下指導」をしなければならないが、彼らとて教員一筋だから「社会の常識」を言ってもせんないところはある。だから「校長のリーダーシップ論」を幾ら言っても「教師出身校長であれば限界はある」と考えた方が良い。
・ 本校でも事務室勤務の職員などは教員とは少し違う。それは常に外部との接触があるからだ。公立学校でも事務室は行政側から来ており完全な「上下社会」である。教師の中では体育科の先生が「常識をわきまえている割合が多い」とこの前、何かのブログに書いた。問題は「ガチガチの教科専門の教師と変にサボりに狎れた輩」である。
・ 私は教科指導に関しては指導できない。資格もないし専門性がないからだ。しかし現状を分析し将来像を明らかにして学校の進むべき道を指し示すことが仕事である。進学実績、試験の結果の分析、生徒のアンケートや保護者のクレームを伝えたりは出来る。問題は教員の「ビヘイビア」である。「身のこなし方」「立ち振る舞い」「言動」と言った方が分かりやすいか。
・ 3月9日、10日と続けてブログに「見事に切れる」「切れた事例」を詳述した。これらも部下指導の一貫である。職場風土は長い年月で作られてきており、一朝一夕で変わるものではないが誰かが言わねば何もエンジンはかからないのだ。「誰が警鐘を鳴らしてくれるというのか」。外部の人間は何も言ってはくれない。
・ 私はその「蘇生させる役目を果たしている」。しかし元来は先輩教員が後輩教員、新しい教員を「仕事を通じて指導」していくことが最も素晴らしい姿である。ところが肝心の先輩やベテランが「その気などなくて逆にマイナスに作用」していたら、それはとんでもない話で接触の機会が多いだけに一挙にその組織は腐敗していく。
・ 特に「校内試験問題の作成」と「服務規律」に極端に表れる。この二つを見れば立派な教師かどうかが分かると思っている。見事な実績を誇る教師は人間的にも「人から尊敬」されており、生徒や保護者も一目も二目もおかれる存在だ。私は「そういう教師を一人でも二人でも育てていきたい」。
・ だから若い先生方が「どのような教員と付き合っているのか」一大関心事である。つまらない教員と接して「悪い感化」でも受けたら申し訳ないとじっと見詰めているのだ。専任教諭に採用したら1年間はベテランの指導教官をつけることにしている。
・ 私は長い企業経験、公立学校の校長4年間、私立学校校長2年間の普通は誰も出来ない経験を有している。日本全国私のような人間は多くはいない。それだけに「一つの新しい学校を作る」という気持ちでやっている。
・ この目的は言い換えれば「新しい学校文化学校風土の創造と醸成」である。それが私の仕事だろうと思うのである。私が教壇に立って英語や数学を教えるわけではない。私には出来ないだけに私が出来るところでこの学校に貢献していくのだ。ターゲットは素晴らしい職場風土である。校長は数年で変わっていく。「職場が人材を育てる」というような浪速にしていきたいと強く思うのである。