2009年3月19日木曜日

3月19日(木)読書

・ 「選択」という月刊誌がある。「この「選択」は言ってみれば「情報誌」でページ数が100ページ程度の「読み易い」月刊誌である。店頭販売は成されていないため、年間契約で郵送されてくるものだ。「マニアックな雑誌」と言っても良い。
・ 定期購読して15年以上になると思うが、面白いのだ。私が評価しているのは「分析が鋭く」、記事の内容に贅肉がなく、その上観点が普通の月刊誌とは違って些か「ひねっている感じ」でそこが面白い。
・ 今月号でも「民主党政権でも役人天国は安泰」とか「見渡せば悪材料だらけ、“落日トヨタの明日」「見直し巡る暗闘は果てしなく”郵政民営化空中分解確実に」とかタイミングよく時事問題を編集部員がまとめた記事として載せているのだ。寄稿文はない。あくまで記者の主観が記事になっている。
・ 今、「」とか「論壇」とか月刊誌の廃刊が続いている。有力な伝統あるものさえ廃刊のやむなきに至っているのだ。「本当に日本人は本を読まなくなった」。月刊誌は「旬な話題」を主軸に編成するからそれなりに社会に対して「自分の意見を持つための有力なサポート」になるのだろうが、売れなくなったということが残念で仕方がない。
・ 一つには「インターネットの波及」であらゆる意見がネットで検索できるし書き込みなどを見れば自分とは異なる意見を目にすることが出来るからだろうか。又「テレビの影響も大きい」。 テレビの報道番組で一方的なニュースとして流され、時に「コメンテーター」と称する人たちが「思い込み」や「狭い了見」だけで論評したりした意見がブラウン管から「ドバーッ」と流されそれが「世論」となっていく。
・ テレビを見ていたら「誰もがいっぱしの社会評論家」になったとでも錯覚を起こしてしまうのだ。自分で考えず「テレビ誘導の意見」を、さもそれが自分の意見だと錯覚しているに違いない。少し視点を変えて意見を求めると「チンプンカンプン」の人がいる。
・ そのような意見などは「風評」の類のものもある。やはり「事実は何か」が問われ判断するには「信頼するデータと自分の頭で考える」ことが要ると思うのだ。そのデータを自分で探し選択しなければならない。そのためには「見るのではなくて読まなければならない」と思う。見ることと読むことは根本的に違う。
・ 意見には「保守系」と「左翼系」とがある。「改革派」と「守旧派」という区分もあるだろう。中立とか何とか言っている論調には「アイデンティティ」が明確でないから良くわからなくなる時がある。やはり「筋」と言うものは大事である。従って社会問題に言及する週刊誌や月刊誌などは「論調」が大切である。
・ 出来れば、ここがポイントなのであるが、「双方の意見を読む」ことが大変勉強になる。「反論する相手の論旨の展開」がどのように成っているのか、同じ現象をどのように観ているのか、そこの比較が面白いのだ。
・  「教員との議論」で問題なことはこの部分である。何か感覚で「好きだ、嫌いだ、良い、悪い」を述べているように思えてならない時がある。だから「ディベート」など彼らとは無理だ。議論が発展していかない。「どうして反対なんですか」と聞いても的確な答えは返ってこない人が居るのだ。頭で論理を組み立てて置かねばならない。
・ 「双方向を勉強する」ことが重要である。 新聞とても同じである。朝日新聞を読んだら産経新聞を読むことで問題の本質が分かってくるのだ。その分かったことが自分の血となり肉となってくる。日本経済新聞をなめるようにサラリーマンは読むが、あの新聞には企業人をして「なめさせて読ませるような味」がするのである。私も今でもなめている。
・ さすがに日本の新聞5大紙は立派で私は毎朝これに大阪日日をいれて6紙を7時10分から8時10分までの1時間で読む。私にとって「至福の時」だ。読みながら頭の中が整理されエンジンがかかってくるのが分かる。「脳のアイドリング」である。
・ そして夕刊がまた貴重だ。夕刊は時々明日朝の朝刊の紙面をこぼれたものが載ったりすることもある。それに朝刊に比べ何か「緩やか」な感じがする。「教育記事などは夕刊に光るような内容記事」を時々目にする。私は産経、朝日、読売、日経の夕刊を読む。
・ 加えて私は「単行本」を月に数冊読む。最近のブログにも書いたが「男道清原和博」「許永中 日本の闇を背負い続けた男」「元特捜検事 闇社会の守護神と呼ばれて」などがある。特に後2冊は面白かった。
・ ところで「教職員の読書量」は果たしてどのようなものか。時々考えてしまう。教職員には毎月の給与に「研究費」の名目で手当を支給しており、これは企業のサラリーマンにはない。やはり先生と言うのは「教材や研究会」などへの出費もあろうからその補填を考えている、おそらく「日本独特の手厚い教員へのリスペクト代」だと私は思っている。
・ 問題はこの研究費をちゃんと研究や教師としての力量アップ、人間としての幅の拡大策などに「有効に使っているのか」という疑念が正直のところある。この研究費は基準内賃金だから賞与にも反映されており、年間ベースでは結構な金額になる。
・ 又個人とは別に「図書研究費」として学校法人とPTA支援とで100数十万円以上の予算があり、これらを消費しようとすると「相当な書物などが購入可能」である。これらを有効に使って教員としてのレベルアップが必要だ。そのためであれば惜しくはない。それよりかはもっと手厚くしても良いくらいだと思っている。
・ 教員はどのような本を読んでいるのか。月間読書量はいくらくらいか。専門書か、一般書か。フィールドが狭いだけに私学の教員は正直なところ、公立の教員以上に頑張らねばならない。その理由は色々とある。
・ 教科専門だけでは立派な教師にはなれない。「当たり前のことが当たり前のように判断」できてこそ子どもたちに指導が出来る。「プライドだけは3人前」で専門的知識以外は「すっからかん」ではやってはいけないだろう。
・ 「幅の広い人間」こそ「人を教えるに値する」。社会、地元から「ああ、学校の先生ですか」と「尊敬のまなざし」でみられるような先生で居て欲しいとつくづく思うのである。狭い了見で特定の思想信条だけに凝り固まった先生は安心して生徒を任せることが出来ない。
・自分の給料と勤務日数と勤務時間のことだけ考えているようでは学校の先生とは言えまい。元々教師という仕事は「奉仕の精神」がまずあって、世の中はその「尊い行為」に対して尊敬のまなざしと高い処遇を与えるのではないか。