2008年7月26日土曜日

7月26日(土)修養ということ

・ 今年も私の「伊勢修養学舎」は終わった。「改革後初めての学舎」であり、「まあ及第点」と思っているが、最近の日記に連続して書いているように「本年度の反省と成果」を明らかにして「来年度の準備」に入らねばならない。
・ 「 学年主任のK先生、学舎主担のM教諭、講師の身分であるがK先生とY先生」は主担を補佐してよくやってくれたと高く評価したい。又科・類長も「存在感」を示した。今年から学校責任者として「教頭を常時配置」としたが大変良かった。いざいう時に学校代表者が外部や保護者に対して対応できるからだ。
・ 結局こういうところでは「生徒指導が出来るか否か」が教員にも問われている。「生指の力量」もこういう場所でこそ「実力が判明」する。今年4月に来てくれた常勤講師や専任教諭の中には何を勘違いしているのか、何のために来ているのか分からないような先生もいたらしい。しかしそれでは困る。
・ 集合時間に生徒よりも遅れてきたり、何を勘違いしたのか「生徒にお土産を配った教員」がいると言う。今朝報告を聞いて「嘘だろう」と言ったところだ。保護者への連絡は「懇切丁寧」にしなければならない。保護者は「学校からの電話に過剰に反応する」。「スピーディでわかり易い誠意ある言い方」が重要だ。それをそっけない言い方や言葉足らずでは保護者の不満を買うことになりかねない。
・ スカート丈をきっている生徒を見つけた先生がいるらしい。「お手柄だ」。巫女の装束に着替えた時に全生徒のスカートを見ながら見つけたらしいが、立派である。「感性」の成果だ。終業式に示した「校長方針を受けて具体的に行動した結果」である。
・ ここは「修養学舎」である。学校ではないし、普通の授業ではない。「修養する場」である。従ってまず教員がその気になって貰わないと「修養学舎」とはならない。教員が単なる「バスツァーの添乗員」だったり「お母さん」だったりしては修養学舎にはならないだろう。
・ 今はもう「死語」になった感がする「修養の言葉」であるが、我々の世代はこの言葉を大変良く使っていた。「しっかりやれ、修養のためや」とか「お前はまだ修養が足りない」とかである。「修行」とは違う。
・ 竹内先生は「修養とは行いを正しくすることによって心を養っていくことである」と定義されている。「脳ではなくて心を養う」ことが必要だといわれる。「修養論」を考える時に我が国は二人の偉人がいるといわれ、一人は「新渡戸稲造ともう一人は野間清治」だとおっしゃっておられる。特に新渡戸の「修養」は明治44年に刊行され「修養論の原点」らしい。私はまだ読んではいないが。
・ 講談社を起こした野間は「何事も修養であり、何事もまず自分を作ることである。だから雑巾がけをすること、ご飯を食べること、お辞儀をするようなことを誠心誠意勤めることである。そういうことの積み重ねの上に人物が出来上がり、世に出る機会も生まれる。それを今の仕事を抜きにして夢ばかりを空想していれば、ろくなことはない。“人間は誰でもその仕事に全身全霊を打ち込んだ時くらい立派で尊いものはない。その顔も態度も一点の隙も無くただ光り輝いて神々しく見える。”
・ 「修養」はこのように明治時代の終わり頃から日本人の心に入り込んできたが、元は「江戸時代の心学」に遡るそうだ。「倹約と勤勉」を説き、多くの日本人の基礎となり、その延長線上に「修養」は位置した。
・ それが「心を磨かずして頭は鍛えられず」の言葉となる。頭だけで生きようとはぜず、「頭から曇りを取ってスッキリ」することがより重要であり、この思想が「修養」だという。生徒からはこういうことをいうと古臭いといわれるかも知れないが実は「大変重要な学校教育の根本」がこれらの記述にあるような気がしてならないのだ。特に最近つくづくと思うのである。最近このようなことばかり考えている。
・ 明治から戦前までは今から考えるとはるかに身体を動かさなければ成らなかった筈である。「修養」の概念は頭をどう使うかよりも「辛い仕事を忍耐して続けることが課題」となる。頭の使い方よりも「勤勉とか克己心の養成」のほうが重要な概念である。辛いとか忍耐とか勤勉とか克己心とか今日的生徒が最も苦手の文言ではないか。
・ しかし現実には戦後民主主義の発達の中で「苦労人物語」は分が悪くなり、敬遠されるようになって来た。親もわが子には「自分と同じ苦労はさせたくない」と「ただ一筋に子の教育にかけた」のである。
・ ところが現実には「忍耐とか辛さに耐えるとか、勤勉とか、克己心とか」の概念は遥かかなたに追いやられ、逆に「個性尊重」「辛さに耐え自分を押し殺すのはいけないこと」「厭なものは嫌と言う自己主張こそ美徳」として「おしん物語」は吹っ飛んでいったのである。
・ 「伊勢修養学舎」を有する本校は「幸せ者」である。「修養の部分をもっともっと高めねばならない」。私は開講式では決まったように「これは修学旅行や遠足で来ているのではない。学校とは言わず学舎と言っている。修養とは・・・・」と口を切るのだが何処まで生徒に伝わっているのか。
・ 「辛さに耐え、何かを掴んでもらうため」にこの学舎を再度見直さねばならないと考えている。又今回「付き添う教員のレベル」の重要さも分かった。教員自体が「この伊勢修養学舎の意味」を正しく捉えていないと意味はない。前述したように、そのような教員も散見されたという。それは「生徒指導の本当の意味が分かっていない教員」だと思う。こういう教員は本校には「不要」である。退場して頂かねばならない。「担任を連れてくる必要もないかなと今感じている。」
・ 「修養の意味」をもっとこの学舎の講座に入れなければならない。そのためには「適切な外部講師を招聘」し一部を学校の教師の手を離れて預けることも一案かもしれない。「修養の意味を教えられない教員では逆効果」である。
・ 今、保護者も学校も大金を費やしてカナダにホームステイさせ勉強させているが「英語よりも髪の色に気を取られる生徒」や「ステイ先と合わないとダダをこね、家を変わりたいとか」まったくもって信じられない「個の世界」に落ち込み、誰もそう易々と経験できない外国の地で「自分の家と同じような快楽と快適さ」を主張する生徒もいるが、すべて「修養が足りない」と言いたい気分だ。
・ 日本の美しい心である修養を見捨てた結果、「キレる」「むかつく」「癒し」などの反吐が出るような概念が登場してきて、教育の難しさはますます高まってきている。しかし「浪速は良い教育をしているし更に高める自信」もある。教職員と頑張っていきたい。