2008年12月5日金曜日

12月5日(金)年末賞与一時金支給日

・ 「年末賞与一時金の支給日」であった。前年度よりは水準が下がっているが「辛抱」して貰うしかない。「辛棒」とも当てて書く。辛く苦しいことを我慢することだ。「もう少しの辛抱だ」とか「後数年の辛抱」などと使う。
・ ところが生徒は余りこの言葉を使わない。「我慢」と言う言葉は知っているが辛抱とは誰もが知っている言葉ではなさそうである。私の母などの世代は「辛抱、辛抱」と言っていたような記憶がある。
・ さて辛抱とは言ったが、正直なところ教員社会に本当の意味で「辛抱の時代」が来たとは私は考えていない。もっともっと厳しくなっていくだろう。一番最後だと思うが「もう昔のような”教員処遇黄金時代”は二度と来ない」と思ったほうが良い。
・ アメリカの金融危機からこっち完全に世界はおかしくなってしまった。「傷つき」の程度が比較的浅かったと言われる日本でも「この有様」だ。「」は大幅な減産で今や日本の基幹産業といえる「自動車業界」も大変な事態になった。車が売れないのだ。
・ 一昔前は「鉄は国家なり」「産業の米」と言われてすべての産業のバロメーターであった。確かに造船も機械メーカーも自動車も多く鉄を使う。だから経済団体の長は大体新日鉄が独占的に占めていたのである。
・ その後外貨の稼ぎもあり自動車メーカーが台頭し最近ではトヨタ自動車が日本経済界にリーダーである。「鉄と自動車という重厚長大産業の時代」が長い間続き、今度の日本経団連の会長は「ハイテク産業」と言われるキャノンから出ている。
・ 「何を言いたいか」というとトヨタやキャノンと言う会社が先頭を切って「非正規社員の首を切っているという現実」だ。雇用を守らねばならない経営者集団のトップ企業が「派遣社員の首を切っている」ということだ。その数もどんどん膨れ上がっている。「学生の内定取り消し」も深刻な問題である。
・ 私の経験でもかってこういう時期はなかった。なかった理由は単純で「非正規社員と言われる派遣社員」がいなかったからである。バブル崩壊後多くの企業は「人件費削減と生産調整の目的」からプロパー社員の比率を下げ、下請けに丸投げする形で親会社を離れたところで非正規社員を増やしてきたのである。今NHKの7時のニュースで盛んに雇用問題を報じている。悲惨だ。
・ この構図は公立学校も私立学校も基本的に違わない。相対的に「常勤講師、非常勤講師の比率」がどんどん上がってきている。「少子化」の中で先行き不安から「専任採用のゲート」は相変わらず「狭き門」である。
・ 本校もその例外ではないが、本校の特徴は他の私学に比べて「格段にゲートは広い」と言うことだろう。それは昨年以来の改革で専任比率が大幅に下がっているからである。それにしても私は思うのだ。「教師は恵まれた職業」だと。
・ この年の瀬、突然に首を切られた人がどんどん出ている中で逆に教師は「売り手市場」になっているとも思える。もちろん学校に拠るのであるが、「教師不足」の様相である。大阪府でもこの傾向が激しい。
・ 一つには「団塊世代教員の定年」と公立小中の「習熟度別授業」だと思っている。これは「教員加配」を必要とするのだが講師手配がつかず始められない学校が40%に上ると言う。特に私立は「教員手配」に苦しんでいるが実態だ。本校の場合来年は更にクラス数が増えると踏んでいるので「常時教員募集中」である。
・ 本校には非正規職員すなわち時間職員と派遣職員が現在5名いるが、「首を切るどころか」、忙しくて走り回って貰っているのが実態である。しかしいざとなったら非正規職員から解雇することは止むを得ない。専任からというわけにはいかないのである。
・ しかし大体不景気になると「教師と言う職業の安定さ」が際立つ。その代わり景気がバブルみたいに浮かれているときでも「そのパイは教師には回って来ない」のが普通で、民間でいうところの「良い時もあれば悪い時もある」という職業ではない。まったく安定した職業なのである。
・ おまけに「差の付かない社会」であったから、言ってみれば「護送船団、それもかなり豪華な客船」であったのだろうが、こういう安定状態にあると、人間というのは悲しい生き物で、当然のことながら「ぬるま湯的体質」となるのは自然だ。
・ 「緊張感のない集団」が出来上がってくるのは仕方がない面もある。加えて「仕事の評価」という極めて組織の活性化のためには絶対的に必要なシステムが無いものだから、「頑張っても一緒、さぼっても一緒」だから誰もやろうとは思わなくなるのも成り行きかも知れない。
・ 一昨日のブログ「太郎が恋をする頃までには・・・」で「読書の仕掛け」と「付加価値を高める教員出現への待望論」を末尾に書いた。夕方まで待ったが一人だけが「読書指導論」を持参してきた。この教員は立派である。ブログを読みきっているのだろう。
・ 夕方私は一人の教員を呼んだ。この先生は「読書コンクールを担当」している教員だが呼んでしばらく話し込んでも「私の意図」が読めないみたいだから、私は言ったのだ。「読書指導で何か答申してほしい」と。そこでようやく気づいたみたいであった。
・ その後副校長と国語科の教科主任、中学の教務部長(専門は国語)を呼びつけて私は以下のように言った。「校長、ブログを読みましたがもう少し意図するところを聞かせてもらえませんか。科内で一度議論しますよ」くらいあっても良いのではないか。 あのブログの問題提起は捨て置きかと。
・ そういう「意図の発信」をしていると私は言った。何のために読んでくれているのか。週刊誌みたいに「読み捨てか」とまで言ったのである。人ごとみたいに思っているのか。数学は一応やってくれている。英語もやってくれている。今度英語は朝の講習も始めてくれる。
・ 「中学、高校の国語力を挙げる作戦は何か」という私からの「問い」だとも強調した。国語力を挙げる「特効薬」などないことは分かっている。しかしそうだからと言って何もしないのでは「進歩がない」ではないかと問うたのだ。
・ 今朝の朝会で私は疑問を呈した。「皆、評価育成システムのことを忘れているのではないか」。標準のA評価とAA評価では処遇に差が出てくる。そういうと事務長がつかさず、その処遇差は「基本給に跳ね返ってくるので賞与や生涯賃金、加えて退職金まで影響してきます」と。その通りだ。
・ 「頑張る教員と時間休ばかりとって仕事をしない教員」の給料が同じであることがおかしいのである。「普通のことしかしない先生と付加価値のある仕事をする先生」の処遇に差があるのが「社会の常識」なのである。
・ 教員間に「処遇差」が出てくる時代となった。「当然だと思う」。これは「格差」とは言わない。言うなら「能力差であり業績差」である。そして「処遇差」である。少なくとも専任教員は非正規職員から見られて「なんだ、あれは?」と言われないようにして欲しい。私が「恥ずかしくなる」。駄目だったら取り変わって欲しい。恐らく常勤講師の先生はそのように感じている筈だ。非正規職員は「何としでも正規職員になりたい」と必死だ。駄目なら「若者にポジションを与えよ」。それがひいては日本の為だ。