2008年10月24日金曜日

10月23日(木)都立三鷹高校校長事件

・ 毎日新聞は時々だが「良い記事」をまとめているという印象を持っている。もう10年くらいこの見方は変わっていない。特に教育関係では時々他紙が取り上げない光る記事に当たる。数日前の教育欄「教育の森」には大きな見出しで「言論の自由か経営適正化か」との見出しが躍っていた。
・ 予断だが橋下知事が「朝日新聞みたいに人の悪口ばかり書いていると碌な人間にはならないとかなんとか」批判したらしいが、これに対して朝日が反論していた記事があった。これには笑ってしまった。朝日に対して、まあ同じように感じる人間も居るのだなって。
・ 毎日の記事に話を戻そう。要は「東京都教育委員会が職員会議での挙手採決を禁じた」ことに都立三鷹高校の土肥という校長(59歳)が「撤回を求めて」いる問題である。本件はこのブログでもすでに触れている。もう何時のことか忘れてしまっているが、この騒動はまだ続いているらしい。それを毎日は紙面1ページを使って報道しているのだ。
・ 「現職校長による異例の言動に都教委は対応を決めあぐねている」らしい。しかしもうあと1年で定年だ。ばたばたせずにあと1年待てば「一巻の終わり」と思いそうなものだが、どうもそうではなさそうだ。新聞の記事もそのニュアンスを感じさせる。
・ 要は学校外部の人間を取り込んで「一大市民運動」にしつつあるような「動き」をしていることに都教委は困惑しているのである。この9月27日にこの校長は武蔵野市の公会堂に350人収容のホールに人を集め、「東京都の教育において言論の自由がどんどんなくなっていく恐怖を感じた。誰かがストップをかけなければ恐ろしい社会になっていくから立ち上がった」というのだ。
・ 「無茶苦茶な言い方」だ。この校長、次のようにも言っている。「全ての問題について校長の責任と権限はない。校長は都教委のロボット、コンビニの店長のようなもんだ。」と。コンビニの店長が怒るぞ!それに多くの校長を貶める発言だ!
・ そんなに言うのだったら「辞職しろ、辞職してから何でもやれ」と私はまず言いたい。現職の校長だし「学校があるだろう、生徒も教員も保護者もいるだろう」。「校長はまず24時間」常に学校のことを考えておく必要がある。そのような市民運動などする余裕があるということは「仕事をしていない証拠」だ。生徒や保護者にしてみれば「教育委員会と筋の通らない喧嘩している校長」など信頼はすまい。
・ この校長、8月には都教委に対して「公開討論」を申し入れたが都教委の答えは「組織内の職務は当事者間で対応すべき」と拒否した。『当たり前だ』。校長の任命権者は教育委員会であり、雇用者に当たる。雇用者が被雇用者から「公開討論」を要望されるなど前代未聞だ。聞いたことがない。少しおかしいのではないか。本校でもこれに似た事案があった。要は当事者を抜いた外部への情報公開だ。
・ 逆に都教委は業績評価制度に関する内部情報を報道各社に公表したことが「地方公務員法上の守秘義務違反の疑い」があるとして校長から事情聴取したらしい。その他色々とあるらしい。間違いなくこの校長は「処分」されると思う。しかしもう処分も覚悟で「行くところまでいく」と覚悟を決めたのかも知れない。本校でも守秘義務違反の疑いがないか今弁護士と相談している。
・ この校長後1年で定年退職しても「戦い続ける」のは間違いない。そのうちテレビになど出て「コメンテーター」でもやるのかもしれない。元文科省の高級官僚で「ゆとり教育」を推進した人など今やみのもんたの番組で「教育とは違う環境問題などにも口を出したり」して評論家気取りだ。「引っ込んでおれ」言いたい。この人のことを国賊ものという人もいる。
・ 職員会議での採決は私がこれまでしつこいくらいに言及してきたが間違いなく「学校を腐食させてきた諸悪の根源」である。教職員は基本的には悪くは無い。職員会議というプロセスで意思決定する「やり方が諸悪の根源」と言っているのだ。
・ 「最高議決機関」説がまかりとおって「日の丸君が代」で校長と職員が激しく対立する舞台にもなり校長の自殺事件などから2000年に省令を改正し「職員会議は校長の職務を円滑化するための「補助機関」と位置づけた。これが「全て」である。
・ 職員会議において多数決で学校を運営するのは「校長の職責放棄」であり、都教委の通知は自由な発言を禁止しているのではない。それを「言論の自由の侵害」というのはおかしいと国立教育政策研究所の菱村先生も言っている。その通りだ。
・ 「自由な議論はどんどんしたら良い」。しかし「決めるのは校長」だ。ただ「皆が行使する1票に信頼性を失ってきた」のが現実だろう。「しんどいことには反対」「処遇が悪くなるのも反対」「行事を増やすのも反対」「帰りが遅くなるのも反対」「卒業式の歌旗反対」「教員の評価反対」「何でも反対の勢力の意向が反映される危険性」を排除しないと学校改革など進む筈がない。大きな禍根を残したのが戦後教育の今日の結果ではないか。
・ 東京都は未だに卒業式シーズンになると一部の教職員が世間を騒がす。だから都教委は「舵をきった」のであり、これは「校長としての責任が遂行できない校長たちへの応援歌であり、つっかえ棒」だと私は表現する。
・ 別の都立高校長は「職員会議は時間がかかり過ぎる」「少なくとも2時間以上かかり」と言い、多くの課題をいちいち挙手で決めているからこそ「教員の労働負荷は大きくなる」のだ。「意見があれば私や副校長のところにくれば良いし担当者間や校内研修でも解決できる。挙手採決は必要ない」と言い切っている。
・ 又別の校長は「自分の主義主張で動く教職員がいる学校は実に大変で通知の存在で助かっている学校はあると思う」と語っている。東京都は舵を切ったが本校ではどうかということだ。「本校では挙手の採決をなくしてはいない」。
・ 要は校長が事案の内容で判断すれば良いだけの話で「採決は禁止と言うのも如何かなとは思う」が上記のような校長が居る限り都の意向は届かないだろう。この校長恐らく新聞記事では「平和主義と基本的人権尊重を伝えたい」と校長になったというから特別の考えをお持ちなんだろうと思う。社会科の教諭から出発だ。普通の校長は平和主義とか人権尊重とかをまず高校教育の教育方針の第一には持ってこない。ここだけでも変わっていると私は見ている。
・ 本校では挙手による教員の意向調査は残している。ついこの前も「敷地内前面禁煙」について挙手による意向調査をしたばかりだ。これだと今後が助かる。これだと「校長が一方的に決めた」とは言わさないためだ。「いやー、圧倒的に皆さんの意向もそうでしたよ」と言えば反論は出来なくなるからだ。「同じことでも教員が言えば賛成、校長が言えば反対というのが長い間の学校文化」だったのである。都教委の決定を私は「仕方なし」とする。