2009年1月11日日曜日

1月11日(日)持ち時間考その1

・ 「新春拝賀始業式」夕方に発生した「朝読書監督持ち時間減事件」に対する「腹立たしさ」がまだ収まらない。とにかく本校においては「この問題は根が深い」ものでここをしっかりと抑えておかないと「すべてがバラバラになってしまう危機感」が私には強い。
・ 私は決して「引かない」。この問題だけは一切引かない。理事会に対しても責任がある。長い間過去の理事長や理事者はこの問題で「辛い、死ぬような気持ち」を引きずってきた言わばこの学校の「癌中心部」であり、ここだけは許さない。
・ 副校長が「穏便な取り扱いをお願いします。首謀者4人のうち3人は木村親衛隊です、大幅なコスト増など頭が回らなかったと言って反省しています。顛末書も書いてきました。」と言って来たので、私はこの事件は昨日で「蓋をする」ことにしたのだ。信頼する副校長の立場も考えたのである。元々個人が憎いのではないが、状況は責められるべきだ。
・ しかしあれほど現在本校が置かれている状況を1時間も説明し「努力と辛抱」を訴えた初出の日の職員会議から「たった二日後」のことだ。こういう「センス」が分からないといっているのだ。答申の仕方もおかしいといっているのだ。「逆鱗に触れる」というのはこういうことだろう。
・ この問題そのものでは「処分の対象にはならない。」これは当たり前である。ただ「教師としての資質に関する分限処分的」なものは可能であり、今回の教員の中には資質の問題を起こしているのは今回だけの問題ではないのだ。過去にも様々な局面で問題を起こしている教員もいる。
・ 確かに「相対的には良い面を有している」点はあり、それは大いに認めている。しかし根本的なところで「洞察というか見識というか」そこに不満がある。一言で言えば「バランス」が取れていないのだ。極めて「いびつ」である。教員になって上司から厳しく指導を受けたりしたことはないのが教員だ。「先生、先生」と呼ばれて「自分を誤解、錯覚」しているのだ。
・ 許せないのは「時間減にしたら担任は一生懸命やります」と言ったことだ。「勤務時間内の役務に対する責任感」などそこにはない。「金をくれたら一生懸命やります」と言っているのと同じだ。「勤務時間内は一生懸命やるのは当たり前だろう。」
・ 2年前、苦労に苦労をして従来の「持ち時間16時間を18時間」に私は変革した。そのことによって「浪速は急浮上」したのである。そこで初めて耐震強度の高い「新校舎建設」を謳うところまで学校は高まった。今から「多聞小学校を買い」、「新校舎建設資金を貯めて行かねばならない」。
・ そういう極めて重要な時に教員代表3人は「18時間を17時間にせよ」と来たのだ。各担任数は50人として50時間だ。今1時間、2時間を減らすために神経をすり減らしている。こういう中でこのような脳天気な人間が許せないのだ。それも極めて重要なポジションにある校務運営委員会のメンバーだ。
・ 昨日もある非常勤職員に今年3月末での「雇い止め」を副校長と事務長がご本人にお伝えしたそうだ。私も「申し訳ない気持ち」で一杯である。言い出すタイミングやその理由など相当神経を費やしている。その背景は事務長が良く知っている。わざわざ「新年の松」が取れてからお願いするように言ったのは私だ。気を使っているのである。
・ 雇い止めの理由は「若い20台前半の常勤講師を継続雇用」してこの部分を追加で担当してもらうことにしたのだ。これで年間数百万円のコストダウンになる。二人の仕事を一人でやってもらうことにしたのである。
・ この若い新卒の先生は特別教科の先生でカリキュラムの関係上来年は時間数が4時間しかないからだ。だから来年1年間は専門外ではあるが「特別にお願い」してこの先生の仕事をキープしたのである。「将来ある若い先生の働く場所を私は確保」したのである。こういう苦労を4人組は全く知らないだろう。
・ 確かに近隣で1校だけ1時間減の学校はあった。そこは伝統ある進学校で校舎もすでに新しく大学も有する総合学園だ。「内部蓄積」など本校とは比べようも無い強い学校だ。賞与の月数など大いに違う。又組合が強い学校で有名なところでもある。
・ 時間減が欲しいのなら「本校を辞めてそこへ行け」。そういえば昔本校からその学校へ転校した先例がある。しかしその他、日本全国朝読書で時間減少など聞いたことは無い。とにかく社会というか世間というかそういう概念は全く無い。頭にあるのは「自分のことだけ」なのである。
・ とにかく自分の勤務する学校の財布のことなど全く考えが及ばなくて「とにかく金を寄こせ、しんどいことはイヤだ」「金を呉れたら一生懸命やる」と生徒の為と言う概念はそこはない。「自分たちの取り分」ばかりに気が行く本当にどうしようもない教員がまだいるというということに私は驚きおののいているのである。
・ 2008年2月8日に私は学校改革論考10において「教員の持ち時間」と題し、公式サイトに公式メッセージをアップした。ここに持ち時間に関する本校の歴史が凝縮している。概要をブログとして再掲する。
1.持ち時間という概念
幾らかでも学校内実に詳しい人は「教師の持ち時間」という概念を理解されているであろうが、一般社会の人々にとっては、それは分かりにくい概念である。平成14年大阪府初の民間出身校長として公立高校に赴任したが、当初はこの「持ち時間という概念と是に対する教員の心情」を理解するのに時間を要した。
しかし今ではこの「持ち時間の概念にこそ戦後から延々と続く学校文化を視る」ことが出来るとまで推敲している。持ち時間とは教師が「授業として教える時間」であるが1週間単位で整理されている。例えばある国語の先生が「標準として一コマ(1限)50分の授業を何コマ持つか」というものである。週16コマ、授業をする場合は「持ち時間16時間」と称する。
労働基準法も法定労働時間が週40時間と決められているからと言う訳でもないが、同じように教師の持ち時間も週間あたりでいう。一般の企業社会のサラリーマンに持ち時間という概念はない。40時間目一杯に働くのであるが、教師にはこの16時間という概念と週40時間労働と言う二つの概念があるのである。
勿論16コマの授業を終えたら残りの40-16=24時間は「一服する時間」ではなくて、労働時間内であるが、言ってみれば「授業以外の仕事時間」となる。何に使っているかと言えば人様ざまであり、分掌の仕事や担任としての仕事、次の授業の教材準備、生徒・保護者との対応とか結構忙しくしている。問題を作ったり、採点などしたりするのも含まれる。
従って私は「教師の持ち時間とは舞台俳優の出番回数」みたいなもので一旦楽屋に引っ込んでも次の出番に備えた衣装の交換や化粧のやり直し、せりふの勉強などと考えたら良いと思っている。舞台俳優は舞台での演技がやはり「華」であり、教師にとっては「授業が華」であることは間違いない。 (その2に続く)