2009年1月18日日曜日

1月18日(日)その2:新春拝賀始業式の夕方の再現

・ 「朝読書持ち時間減要求事件」については簡単に「矛を収めない」と私は宣言した。その理由はこの問題に「教員文化が包含する極めて重要な根幹的課題」が隠されているからである。この事件は単に「朝読書の教員監督時間を持ち時間に入れよ」とする「単純なものではない」のである。
・ まず全ては私の「12月5日と10日のブログ」から話は始まる。「ここまでやるか」と言うくらい、私は「具体的に客観的に現状を分析し学校管理者の思いを3人の責任者に伝達」したのである。
・ 「世の中にはトップが何を望んでいるか分からないから部下は行動できない」などという声も時にあるが、「私ほど明瞭に課題を指し示している人間もいるまい」と思っているくらい徹底して指示を出す。「理由となる背景、他校との比較データ」等を入れて教職員に「訴える」のだ。
・ 本日のブログ:その3には12月10日のブログを再掲する。私がどのようにして何を要求しているかを改めて自分ながら読んでみる。

・ 「1月8日午後3時30分過ぎの校長室で起きた状況を再現」してみる。「新春拝賀始業式」も見事に終わり、早朝には「1000円札で365枚のご寄付を受けた」こともあって、私は極めて「機嫌の良い、幸せそのもの状態」であったといえる。
・ 3人が入室してくる。
校長:「やあやあ、話を聞かせて。待ってましたよ。」用意された資料の説明が始まる
     中略、そして説明が始まって15分くらいで:
校長:「どういうこと?」「1時間持ち時間を減らせということ?」
国語科の教科長:「そういうことです」
校長:「エッ何、授業にするということ?」「コマきれ10分の寄せ集めで「総合的時間」とするから、時間減にせよというのか?」「何処がやっている?」「授業としたら評定は如何する?」「法的に成り立つのか?」矢継ぎ早に課題を投げかけた。
校長:「これは国語科の総意か?」「どういうプロセスで決まったのか?」と次第に私の声は大きくなっていったと思う。
図書研修部長:「教科長の意見は違うところにありましたが・・・」と言って教科長に助け舟を出す。この間教科長は黙りこくって下を向いているだけだった。
校長:「それでは誰が主導したのか。その名前を述べよ。教科長の意見ではないというが資料はそうなっている。私はこの問題に大きく関係する君たち3人の責任者に「諮問」した。その「答申」がこれであればこれは君たちの意見である。それが違うというのはおかしいではないか。それなら主導した教員の名前を言え。直接に真意を正してみる」
 (私はこの時点でピンッと来ていた。これらは明らかに「組合的発想」であり,そうであれば該当者は限られるからだ。)
校長:この時点で電話を取り、2階の副校長を呼び出す。「このような答申を受けた。副校長は知っていたのか?」
副校長:「いや知りませんでした。」しかしまだ何が起きているか理解できていないようであった。
校長:私の頭には思い当たる人間が2人いた。3人に対して「X教員とY教員か」と問い詰めるが当然名前は明かさない。この辺で先ほどから黙っていた中学の教務部長は突然立ち上がる。下を向きながら青ざめた顔をして次のように言った。
中学教務部長:「中学はやらせてください」「やらせてください」
校長:「調べると今まで中学の保護者から朝読書の実施を要望されて来ていながら君はなぜ今まで放置してきたのか。その理由を説明せよ。」
中学教務部長: 黙る
校長:「君たちが名前を言わないなら直接私が聞く」と言って国語科のX教諭を部屋に呼ぶ。
校長:「X先生、君が持ち時間減を主導したのか?」
  Y教諭:「私ではありません」。
校長:「分かった」。「帰って良いですよ。」「分かった。Y教諭だな」「Y教諭を呼んでください」
副校長:「本日Y教諭は私用で休んでいます」「今日は今から私が別室でなぜこのような答申になったのか詳しくヒヤリングして調べます。」
中学教務部長:「中学はやらしてください。」
校長:「この問題は原点に返って人も体制も入れ替えてやるからしばらく凍結」とする。
    以上が掻い摘んだ当日の夕刻の状況である。

置かれている状況への認識不足というより全く現状認識が欠落している問題
* 二日前の本年最初の職員会議で私はA4版2枚に詳細な現状分析と課題を書き上げ1時間に渡って詳しく「努力と辛抱」を訴えた。そのたった二日後のことである。
* 更に一両日中には多聞小学校を買収する値段交渉の真っ只中にあり、そのことは全員が知っている。私は全員が「我慢」をして新経営計画を完遂する意識結集を図ったと思っていた。当然教職員は「分かって」いてくれていると思っていたのである。
* しかし実際はそうではなかったのだ。右から左へ聞き流していたに過ぎない。「組織目標」が完全に無視されたのである。
意思決定プロセスを逸脱した答申手法
* 後の調査で驚くのであるが中学は「工夫でなんとか実施できるという校務会の結論」があったみたいだが中学教務部長の手で持ち時間減の答申に変わってしまったということが判明した。図書研修部長も中学在籍の教員である。
* 科会の実態は大きな議論が巻き起こって喧々諤々の議論にはならず「影響力のある教員の一言」が流れになって「うやむやのうち」に会議は終わったのが実態である。
* それを中心となる科長が「そのまま全体の意見」として記載したというのが実態である。彼から提出された顛末書にはそのように書いてある。
不公平というものへの考察の不足
* もし担任の朝10分を持ち時間にカウントすれば例えば生徒生活指導部の教員が朝の門立ちの指導時間をどう考えるのか、話は担任だけに及ぶだけではなくて全体の問題という認識がない。これは私の問題提起にも明確に述べている。
無知をさられけだすというか仕組みを勉強しない
* 持ち時間1時間がどれくらい大きな意味を持つか今まで何回も何回も何回も説明してきているのに「頭にはなかった」と誰もが回答しているように勉強をしない。「それは無いだろう」といいたい。
* だから「総合的学習の時間に入れる」と言ってもそれを実施している学校はどこか答えられない。その意味は「学習指導要領に合致」しているのかも答えられないのである。要は「いい加減な答申」なのである。
組合的な流れに直ぐ乗る
* 今回はその典型的な例である。一人の存在感のある組合教員の発言に「ガバッ」と食いついてそれに合わせて話をまとめたように学校社会は「自分は組合員でもないのに組合の力を借りて学校を動かす」というところがある。
* 中学などはその例である。中学の教員の意向とは違う声が科会で出た時に中学教務部長は“中学はこうさせてもらう”と言わなければならないだろう。少なくとも会議ではそのような発言があって然るべきと思うがそのような形跡はない。この教員も昔は組合教員であった。

今回の事件で私は自分の味方を改めて再確認した。
① 教員には「入るを図り、出るを制する」という考え方がない。言い方を変えれば「経営」ということが全く持って頭には無い。お金をどのように稼ぎ、それを適切に経理するということが全く分かっていない。
② この点は公立教員にもなくて「税金」は独りで入ってくるものと彼らは考えている。私立の教員は少しは「まし」かと思ったが結局経営の考えは全く無いことが分かった。
③ 「自分たちの給料は理事長や理事者が出すもの」で「自分たちで稼ぐもの」という考えはまったくない。だから生徒数が少なくなろうとも不景気になろうとも「給料は増え続けて当たり前」という考えから抜けられない。
④ 頭脳の構成が偏っており一つのことしか考えられない。「物事を複層的に多面的に関連つけて考察することが極めて苦手」というか出来ない。だから持ち時間1時間減がどういう影響をもたらすか考えが及ばなくなる。
⑤ 「日和見的行動」が身についており、都合の良いときは管理職に擦り寄り、仕事が増える校務の流れは「組合主導」に乗っておけば「損は無い」という誠に持って「さもしい」考え方が行動を左右する。
⑥ 科会とか職員会議とかにおいて民主的に決めると言っても結局は組合の考え、大きな声の持ち主の意見に沿っておけば「身にかかる火の粉は少ない」と考えている。今まではそれで世の中を通って来たが校長が変われば世の中が変わるということに考えが及ばない。「時代は変わった」という認識がない。
⑦ 結局教員の民意とは「楽をする、損をしない」という自分の処遇が第一で「飯の種」である「生徒の為」というのは彼らには幻想であったということだ。職員会議とは結局自分たちの都合の良いように話を「全員が決めた」と言って格好を付けるが要は「全員が決めるということは誰も責任を取らないシステムである」というトリックであるという私の考えが今回見事に立証された。
⑧ 「井の中の蛙」でありとにかく他校の調査などに考えが及ばない。それに法的知識が極めてというか殆ど無い。だから平気でびっくりするようなことを言ってくる。「総合的時間を授業とする」など。
⑨ したがって「他校での実践例」や経験などは全く役にたたないというかそういうものを導入することに極めて臆病である。「飛び出るくいは打たれる」ことを極端に恐れ、首を縮めて上目使いに周囲の教員の反応ばかりを気にする。
⑩ 先に飛び出ることを恐れ、自分の思うことと大勢が違っておればとにかく大勢に逆らわない。それは「言い出しっぺの責任」を恐れるからである。特に仕事量の増大などは極端に恐れる。今回の問題もその本質的な要因はこれである。
⑪ 「反省」という概念はない。生徒には強く反省を求めるが自分には反省を求めない。今回の問題でも近くのライバル校はすべて実施しているというのに、誰も言い出さない、「今まで放置していたことへの反省」などはまったくない。校長から指摘を受けるなど「」だという考えは何処にもない。
⑫ 「まず成果を出して成果配分を求める」という考えがない。「やる前に出すものは出せ」が彼らのやり方である。私とて「鬼ではない」。成果が上がれば「出すものは出す」。
⑬ 教員の持ち時間に対して給料を払っている。持ち時間とは「お金」なのである。それを私は「均等に出す気はない」。「形だけカッコウつけてそれでやった、やった」という者へ出すお金は一円もない。「成果を上げてくれるか、誰もが認める努力をした者」にこそ「成果配分」はあるべきである。それが私学である。

頭に今、去来していること
① 私は今「失敗した」と思っている。あの時答申の言い分を聞いて「持ち時間1時間を受け入れてその分の給与カット」をした方が良かったかなと反省しているのだ。
② 標準が18時間だから「1/18で5.6%の年俸ダウン」の方が経営的には良かったのではないかと思っている。これは既に平成19年の理事長・校長メッセージに公式に詳細説明してる事項であり、「何時でも引き金は引ける状態」である。
③ その方が教職員も体は楽だろうが本当にそれで喜ぶのであろうか。「私立学校の稼ぎ手は我々教職員しかいない」ことを分かって貰いたいと私は念願するばかりである。