2009年11月7日土曜日

11月7日(土)校長からの希望降格










・ 困ったものである。1昨日5日の新聞各紙に結構大きく載っているのだがいずれも「過去最多」だからこのような取り扱いになったのだろうが、こういうところに現代日本の教育界の「ひずみ」というか「病巣」の一部が「垣間見える」ような気がする。読売などは「トップ記事の扱い」である。
・ 毎日新聞は「社説」にまで掲載していた。「もっと実態に踏み込め」との見出しだが毎日が初めて次のような文章を使っていた。すなわち「互いに“先生”と呼び合う学校社会はかって長く互いが口出しをしないような風土があった。“私は良くぞ書いて呉れたと思っている。
・ 更に記事は以上に続いて“改まりつつあるが今指導力不足、過重な職務、新人の孤立に支援体制を充実させるには開放的で率直な意見交換と協力が欠かせない。”この通りである。ただ私は以上に付け加えて一言、「まだ職業人としての自覚が甘い!」と言うことだ。
・ 公立学校の教員採用試験に合格しながら1年間の試用期間後に「正式採用とならなかった者が315人と過去最多」で、そのうち約3割が精神疾患で依願退職していたという。文部科学省の調査で4日に発表されたものである。
・ 「指導力に自身を失い鬱(うつ)に繋がっている」と言う。又校長や副校長、主幹教諭などから一般教員に自ら志願して「降格を申し出た者も179名」とこちらも過去最多である。
・ 特に私が問題とするのは管理職からの希望降任である。「重責、自信ない」と言って「敵前逃亡」とは言わないが校長先生から一般教員に成り下がるか!そういう者は初めから「校長になるなって!」言いたい。
・ 「責任の重さに耐えられず仕事に自信がなくなった」というが「保護者対応」や「学校経営の手腕」など教科だけを教えておけば良かった時代と「仕事の中身が異なる」のは当たり前で「分かっていた話」ではないか。
・ 中には「介護が理由」というのもあったがこれは判らぬまでも無いが、私個人的には理由にはしない。「組織のトップとはそういうもの」だと自分の親からも先輩、上司たちからも教えられてきた。親の死に目に合わないことも覚悟してきた。
・ 大体校長と平教員で介護の時間に差がどれくらい出るのだろう。「仕事の質の違い」であって「時間が取れるとか取れないとか」の話ではないだろう。時間を取ればよいし、そのために有給休暇もあるし介護保険制度もある。
・ 管理職の仕事には「マニュアル」などはない。「危機管理」が仕事の全てと言っても良いくらいである。一般教員からすぐに校長になったわけではない。数年間は管理職である「教頭」としてナンバー2の経験を知り「身近の校長」を見ている筈である。
・ 「処遇」すなわち「給料は少ない」「古参の教員とさして違わない」、そこへ持ってきて「荒れる学校」「わがままな教員」「教条的な組合教員」「無茶区茶言ってくる保護者」「学校に出てこない生徒」などなどの心を痛める仕事は確かに「割の合う仕事」ではない。
・ だからと言って自分だけ「バイバイ」するのは「卑怯である」とのそしりを受けないか。一般社会から見れば「校長と言う職位」は特別なものがある。その校長が「辞めたではなくて止めた」では締まらない。「止めるときは辞めるべきである。」厳しいけどそれが道理であると私は考える。
・ 結局「管理職への登用方法」に問題がある。「組織を引っ張っていく基礎訓練」ができていないのである。ここが企業の管理職と根本的に異なる。若いときから鍛えられていないのである。鍛えられるような訓練が「キャリア育成計画の中に無い」のである。
・ もう一つの問題は「仲間内から出す」ということが長い間のやり方であったと私は思っている。同じグループ内の後輩を引っ張って校長にしていくからこのようなことになる。大分県教育委員会で起こった管理職間の「もたれあい、なれあい」はすさまじいものであった。
・ 実は学校社会は「親分子分」「兄貴分弟分」の世界なのである。校長は「仲間内人事」なのである。人権研究会グループ、国語研究会グループ、生指グループ、教務グループなどなどだ。
・ 勿論その中に適任者は居るのだが「親分子分の間柄で説得を断れず」、校長になったは良いが今日の学校内部は「日々変わっている」と言っても良いくらい変わっていくのである。生徒も変わり、保護者も変わり、「変な教員」も居たりで「知識だけでこなせる」ほど学校内部は甘くは無い。
・ 余程の「意識」が必要で私はこれを「肝識」と言ってきた。「肝が据わっていなければ」「心の病」になるのは避けられない。「学校とはもはやそういう場所」なのである。孤独な校長は「現状から逃げ出したい気持ち」は分からないではないがそこが「我慢のしどころ」だと思う。
・ そして問題は教育委員会の支援だ。「もめ事」を嫌ってきた委員会は最後には「校長に責任をとらせる」。要は「はしごをはずす」のである。これでは校長など「やってられない」と放り出すだろう。
・ 教育委員会と校長の間は「契約関係」で成り立つというように「情実」を排して「ドライなもの」にすることが必要だ。契約書さえあれば何が出来て何が出来ていないか、公約の未達の原因全てが明らかになる。仲良しクラブ内の騒動では外部からは何が起こったのか伺い知れないのである。
・ 希望降格した校長170人の詳しい調書を取ったら「今日の学校社会のすさまじさ」が明らかになろうが、辞めた校長が「本当の事を書く」とも思えない。「校長残酷物語」は今後とも続き、管理職校長のなり手はその内いなくなるだろう。少なくとも手を上げるような人間は出てこない。

・ 一方読売は同じ日の紙面で「教職員懲戒免98人」「わいせつ。放火。覚醒剤・・・」との記事を載せている。今年4月から10月の7ヶ月で98人が懲戒免職だから少ない数値ではない。これは読売の調査結果である。
・ 「教師としてどうかと言うより社会人としての自覚の問題」と頭を抱えるのは大阪府教委の人事担当者と記事にはあったが、これは事務長が酔っ払って歩道のダンボールに火をつけた事件である。実はこの前に教諭の万引きが2件続いたという。数ではなくて「内容の酷さ」だという。
・ 「ハインリッヒの法則」というのがある。企業人なら大概の人が知っている労働安全に関する法則でアメリカのハインリッヒと言う人が提言した「1:29:300」の法則で一つの事件事故事象はたまたま表にでたものが一つだが、それに準じる事象は実は表には出ていないが他に29件あり、そしてその29件の最後には300件もの「匂いみたいな兆候」があるというのだ。
・ これ流にいえば「98名の懲戒免職の裏には2842件の教員の不祥事があり、その最後列には29400件もの予備軍」があるというのである。少し飛躍しているが全国80万とか100万とか言う教員の数からすれば、決しておかしな数値ではなかろう。