2010年3月23日火曜日

3月23日(火)併願戻りの確定
















・ 「朝曇り」で天気の気配は出勤時にはすでにおかしく、迎えのタクシーの運転手さんは4時過ぎには「ぱらぱらと来てました」と言っていた。今日は「公立高校合格発表日で併願戻りが確定する日」であった。今年はどういう訳か結果が気になって仕方がなかったのである。
・ 「公立高校の授業料無償化と府立高校の定員増」の影響の具体的な証明は「併願戻り数」から判断できる。「専願数が増えた」のは大体どこの私学もそのような傾向だったみたいだが、その理由は「最初から私学決め打ちムード」に社会が追いやったと私は分析している。
・ 「授業料無償化が公立高校に及ぼすマイナスの影響」と私立高校も年収差はあるが「12万円から24万円までの国の助成」や「大阪府独自の就学支援システム」が保護者を動かし専願数が増えたと考えることは自然な考え方である。
・ しかし併願者というのは元々が「確固たる公立志向」であり、今までのように志望公立が不合格だったからと言って単純に「私学に戻る」のではなくて「公立の第二次募集」に走る層も相当要ると私は踏んでいたのである。

・ 8時40分「ご退職される4人の専任教諭に対し特別会議室において辞令交付」。勤続で言えば35年、34年、32年、3年である。一足早い辞令交付としたのは本日が「終了式(終業式)」だから今日以降はもし有給休暇の残余があれば「有休奨励を配慮」したからである。「次なる旅たちへの準備」もあるだろうし、ギリギリまで働いて貰うというのは私のスタイルではない。
・ 9時00分管理職朝会。今日の「時程」を確認した。本日は授業が2こまあってその後終了式となる。「終了式に授業をするなんて本当に学校は変わった」。嬉しい。「学校姿勢の問題」である。
・ 今日はお隣さんの「山之内小学校の卒業式」に来賓として招かれており、今まで欠席ばかりだったのと、「新武道館の工事が始まる」のでその「着工ご挨拶」もかねて出席としたものだった。
・ 生憎、時間がダブル部分があり、時間調整をしてもらった。すなわち授業終了後直ぐには終了式とはせず教室の清掃などを先行してもらうようにしたのである。その時点では「小学校の卒業式は幾らくらい時間をかけるのか」まったく分からなかったのである。
・ 9時45分、まだ雨はなく一応事務が用意してくれた雨傘を持って自転車で近隣の山之内小学校に赴いた。時間は3分もかからない。この卒業式のことについては別途書いても良いが、一言で言えば「式の始めから最後まで練習と訓練された素晴らしいミュージカル」を見たような感じであった。
・ 生まれて初めて小学校の卒業式を経験した。「新鮮なそして覚醒した印象」を私は有したのであった。「大いに勉強」になった。浪速中学校の校長でもあるから今回の小学校の卒業式は「国旗国歌問題」など多くのことを私に教えてくれたのである。
・ 11時55分小学校を後にした。雨は「ぱらぱら」来ていたが急いで学校に帰着。通用門をくぐったときに丁度終業式の「校長講話」のタイミングであった。ぎりぎり間に合ったのである。ホームルームや教室の清掃に手間取ったからと言う事だった。
・ 12時25分 「臨時職員会議」にてご退職4人の先生方を全教職員に正式にご紹介し、「永年のご功労に感謝」申し上げた。短い時間ではあったが「誠意を尽くして」ご功績を述べたのである。送別の宴は5月10日と決めてある。4人の先生方からもご挨拶があったが「淡々」として良かったと思う。
・ 13時昼食。次々と今年でお別れになる常勤講師の先生が「お別れの挨拶」に来られた。立派な態度であった。これを「一宿一飯の恩義」という。皆さん「浪速で良い勉強をした」と深々とお礼を言われた。私は嬉しかった。
・ 「ご縁薄く」長くお付き合いは出来なかったが、例え1年でも2年でも「浪速経験」が先生方の今後の人生に活かされればと思う。公立を目指す方、結婚される方、故郷に戻られる方「人生は様々」である。「グッドラック」と心で叫んだのである。

・ 本日もう一人の先生も本校を去る。朝方短い時間ではあったが二人だけで「心の通い合う」会談となった。私はこの先生が好きであった。正直明日から居なくなると思うと寂しい気がする。
・ お名前はM先生。おん年70歳。和泉市の住人。一人娘さんは嫁がれ今奥様とお二人。本校OBで昭和37年卒業と同時に奉職。国語科の教師。真面目一筋に65歳定年まで勤め上げ、請われて入試広報室に嘱託として勤務。生徒募集活動に注力。
・ この度70歳になったことで後進に道を譲り、引退を決意。先生は言われるのである。「48年の浪速勤務ではなくて高校時代に3年間、大学時代もバレーのコーチとして4年間浪速に通ったからこれらを含めれば55年です。私の人生70年で55年が浪速と共にありました」と。私は「ぶったまげた」と同時に「感動した」のである。
・ 48年の教師生活で「最大の思い出は?」という私の問いに瞬時に返ってきた言葉が以下のようなものである。「昭和39年から40年にかけて組合闘争が激しくなり、職員室などにもビラや看板などが垂れ下がり、「自分の母校を潰すのかと当時の組合教員に詰め寄ったことが忘れられない。」「無茶苦茶な時代」でした。
・ 次の思い出は「中学校に配転になってから」だと言われる。ここで当時の立派な先生方に身近に接するようになり「教師とは一体何かというものを学んだ」といわれるのである。3人の先生のお名前を挙げられた。これらの先生のおかげで「自分は教師に初めてなれた」ような気がすると言われるのである。素晴しい。
・ そして次の先生のお言葉が「圧巻」であった。「教師というには40歳を過ぎて初めて自分は先生かどうか言える」のであって40前の教員はまだまだ「学校の先生と言うにはおこがましい」と言われるのである。
・ そしてM先生は「教師は良い教師によって学び育つ」と言われた。この二つの言葉は特に若い教員が「かみ締める言葉」だと思う。40前はひよこ、良い教師の恩師を持てと言われるのである。言い方に「迫力があった」。
・ そして「私と後輩たちへの遺言?」を頼んだのである。先生は言われた。“理事長が今の浪速を作ってくれた。もう誰もが知っていることである。自分は特に東大阪を拠点に塾周りをしたが木村理事長を知らない先生はいなかった。今日の高津高校を作った人として有名であった。”
・ そのお陰で理事長が来られる前は塾訪問をしても「フンフン」という感じであったが今や東大阪の塾長様も時間を取って会ってくださる。又公立中学校の校長先生の中には高津出身の方もおられ木村理事長の「ファン」であり、ファンがとにかく多い。
・ 「理事長の入試説明会のお話やブログ」は行き渡っており、私も塾訪問前はブログを頭にいれて出かけないと恥をかくことになった。理事長への遺言は「私と同じく70歳まで私の母校で頑張って欲しい」と言われたのである。
・ 入試広報室のメンバーは現在「史上最強のメンバー」で敢えて言うことはない。理事長がO入試広報室長を管理職に登用したことも最初は驚いたが素晴らしい人事である。彼に今日は「東大阪を中心とした塾情報ファイル」を渡した。私は時々来校して「チェックして」と言ったのである。
・ 今度本校に招聘された堺市の校長であるT先生は私が教えた生徒で彼が母校の入試広報室に入ってくれるのも嬉しいニュースである。「自分の母校がこのように輝き、理事長と仕事をした3年が最大の私の思い出」となった。「後顧の憂いなく去れる」。
・ 「本当に仕事をした人間だけが口に出来る言葉」である。やっぱり人間は自分の職場を愛し、損得の感情だけで動いては駄目だということではないか。早く学校からいなくなった人には「損得だけ」の人が多かったのではないか。

・ 初の併願戻りの生徒が事務の受付に来られた時間は12時だったと事務が言う。少し「出足が遅い」のではないかと当初は心配した。年を取ると「心配性に拍車がかかる」感じだ。途中事務室の前に様子を伺いに行った。もっと「ドンッ」としていなければならないのは分かっているのだが仕方が無い。ところが13時を過ぎれば「事態は一変」したのであった。
・ 「時々刻々と入試広報室長が併願戻り数を報告に来る」。13時45分「今、500人を超えました」。この数値は専願数を加えた「入学者数トータル」を言っているにであって戻りだけの数値ではない。専願数はすでに決まっており360名であった。
・ 14時30分「今時点で532名となりました。」後締め切りの15時まで30分弱ありますからもう少し伸びるでしょうと「顔が幾分紅潮気味」であった。14時30分で昨年の515名を抜いて史上2番目の多さに迫っているのである。私は「安心というか」、「静かなる興奮」を感じながら「今年も勝負あった」と思ったのである。
・ 15時過ぎ締め切った。「今年も勝負に勝った」と思う。何の勝負かといえば「自分の経営結果」についてである。「併願戻り数は189名で専願と合わせて549名」で確定となった。ここ最近では歴代2位の生徒数になる。戻り率はまだ確定ではないが9%前後であり、入試広報室の予想通りとなった。
・ 体育館では「併願点呼」が静々と行われており、新学年主任が緊張感を持ってリードしていた。「多いですね」とこちらも幾分興奮気味である。私は体育館から戻って早速副校長二人と「クラス編成」の方針を出したのである。「理数科1クラス、普通科12クラスで合計13クラス」でこの学年は行くと決めたのである。
・ こちらも極めて幸運な数値配列で「科類の調整業務」は少なくて済む。私は本当に「幸運」である。教員手配もピッタシ嵌ったのである。全てが「合理的、効果的な結果」となったのである。
・ 私はこの1年の教職員の頑張りに対して「心から感謝と慰労の言葉を伝えたい」。明日から新しい常勤講師を入れて「新フルメンバーが勢ぞろい」して新年度の準備に入っていくことになる。全教職員「気持ちよく、そして元気一杯、この1年が過ごせる」のではないか。ここが嬉しいのだ。
・  しかし私学は面白いし、チャレンジグだ。「努力すればした分、結果がすぐ出てくる」。私は朝方会談したM先生の言葉を受けて70歳まで第一線で頑張る積りである。少なくとも「新校舎建設」は私の手で図面を描かなければならない。しかし良い締め括りとなった。「体全体に喜びがジワジワと満ち溢れてくる感じ」だ。