2009年4月18日土曜日

4月18日(土)学校はこのようにして変わっていく

・ 4月14日の日経の記事である。「在宅学習で単位取得」「不登校の高校生卒業し易く」とある。これに準じる話はこのブログにおいても今まで何回も言及してきたが、正式に文科省は全国の教育委員会に「通知」したから「これで本番」となる。
・ 要は「学校に来なくとも」一定条件を満たせば「卒業認定に必要な単位を在宅学習でも認める」というものだ。高校生の場合卒業と認めるための「必修単位数は74単位」であるが・・・。
・ 今回の指導は、74の半分である「36単位までなら在宅学習を認める」というもので「完全な学校文化の変革に繋がる話」だと私はみている。「学校はとにかく行くもの」と教えられてきた世代には「奇妙な違和感」も残ろうが、学校に来ることの出来ない生徒とのことを考えた結果である。不登校は「病気」としたのである。
・ 「不登校の生徒」は2007年度で約53000人に上り、不登校をきっかけにした「留年」や「退学」を減少させるのが狙いであるが、一方では当然のこととして「在宅学習が安易な単位認定に繋がり、不登校を助長」することがないように「学校側は教職員の体制や指導法に十分留意して欲しい」と文科省はコメントしている。
・ 色々条件をつけても結局は「自宅学習」も学校の単位認定に繋がるわけで「学校の性格が又一歩変質した」と私は考える。教員は生真面目な面があり、「出席日数至上主義的な文化」が身体に染み付いており、とにかく学校に来さえすれば「何とかなる、何とかする」という「優しい面」を有しているのだが「学校に来なくとも良い」となれば「受け止めに複雑なもの」があるだろう。しかしこれが時代の流れである。
・ しかし全ての在宅学習に単位を認めると言うことではないのであり、「メールを活用」したり教師の添削指導や対面指導、宿題指導など「様々な条件」が付いており、実はこの条件が曲者で又「教師の仕事が増える」方向にあることは間違いない。
・ 大体「新たな施策展開は何時も教員の労働負荷の上に成り立っている」のである。このような意見を付則する教育評論家などいない。だから私が代わって言う。新たな仕事にはそれなりの「処遇を考えてやる」べきではないか。

・ そのように思っていたら15日の読売である。「大阪府30才代校長も」「経験など条件緩和」とある。府教委は10年度から「若手の教諭を教頭などを経ずに校長に登用する人事制度」を府内の小中高で導入することを決めたとある。
・ 橋下知事と同世代の30才代校長が誕生する可能性を言っているのだが、同時に府立高校では教員免許を持たない「行政職」から校長に起用する仕組みも取り入れるらしい。要は「校長に多様な人材」を確保することで「学校現場の活性化」に繋げる狙いだ。
・ 橋下知事らしい。これもまた「公立学校文化の破壊と創造に繋がる」のだと思う。従来は「校長先生」になるのは公立で言えば長い教諭経験、組合経験そしてまず「教頭職」を経験して平均で「公立小中が54.4歳、高校で55.6歳が校長になった時の年令」だ。私は民間企業出身であるが55歳で校長になった。
・ 一般的に言って公立の場合は55歳で校長になって大体2校程度廻って「定年」になる。しかし38歳くらいで校長になればその後はどうするのだろう。22年間も校長をやるわけが無い。大体教頭経験もせず38歳で平から一挙に校長になって「海千山千のベテラン教諭」を使いこなせるか。
・ 行政職からも登用とあるがこれは「グッドアイデア」である。とにかく「行政職と指導職(教職)との垣根」を取り払うためにはお互いが「相互乗り入れ」することが肝要だ。又教育長や副知事、知事になるような人が若い時に校長として学校現場を経験することは「役に立つ」話だ。数年の経験で又行政職に戻ればよいだけの話である。
・ 私学の場合はどうであろうか。大体私学の校長で教員出身と言うのは案外少ないのではないか。銀行家や上場会社の管理職経験者など様々である。だから「私学は面白い」とも言える。校長職は「特別職」であり、「学校運営経営は校長のマネージメントにかかっている」のは間違いないから、ここをポイントに考えれば必ずしも教諭出身が校長にならなければならないと言う時代はすでに過ぎ去ったとも言える。
・ 本校の事例を見るまでも無く「校長一人で学校は変わる」のである。逆に言えば「校長一人で学校はつぶれるか」の問いについてであるが、私学の場合、それは「理事会側の責任」だと考えねばならない。校長がアホで理事会が「ぼんくら」であれば間違いなく学校はつぶれる。公立がつぶれることは無い。公立は教育委員会が絶対的権限を握っており、又人材も豊富だ。
・ 「ワイン通の理事長」などと言われるようになったら「おしまいは近い」と考えた方が良い。特に私学の「オーナー系理事長」が校長兼務となれば「大成功するか」「大失敗するか」の両極端だろう。権限が強大であるからだ。
・ 理事長・理事会がしっかりしていれば「校長がアホでも学校はつぶれない」。「校長を首にすれば良いだけの話し」である。だから観察していると大学系の私立高校は、「いとも簡単に校長の首をすげかえる」。これはすごい。
・ しかし考えてみれば、これは当たり前で「理事会の経営意思が最優先」なのであり、これが私学の「骨格」なのである。大学法人が系列の高校の校長人事を決めるのは至極当然であるのは分かる。
・ 変わらない教員の意識の中で、教員とさも「談合しているような校長」「教員にとって都合の良い校長」であったが、3年経ったら学校は「消えていた」では仕方がなかろう。いずれにしてもやはり「校長の職位」は重要なのである。
・ 校長職に求められる資質は「経営的視点」であり、「強力なリーダーシップ」である。戦後「擬似コミューン化された学校現場」を解体するのは余程の「剛腕」が必要である。組合出身で教員社会にどっぷりとつかった教員出身校長が「既存の秩序を破壊して新たしい秩序を打ち立てるのは至難の技」と考えておいた方が良い。
・ 教員出身校長が悪いと言っているのではない。彼らに全く罪は無い。「状況の問題」なのである。「状況を責めよ」と私は言っているのだ。長い間に良いと思っていた制度も「旧弊」と言われる。しかしその制度を作って運用してきた人々にはそれを「変えよ」と言っても「一筋縄にはいかない」のである。
・ 私や橋下知事の誕生で「既存の秩序は崩壊して変わる」のである。30代校長の誕生、結構ではないか。知事部局の40台の保険課の参事が校長になる、良いではないか。その代わり知事も「人事責任者」として「大きな責任」を抱えることになる。
・ 学校に行かなくとも在宅で単位が貰える生徒の誕生、教壇に立ったことのない38歳のサラリーマンがある日「校長先生」になると言う時代の到来はまさしく「学校というもの質的変換」を現在進行形で示しているのである。
・ 教職員は「この世の流れ」を恨みがましく、妬みを持って、眺めるのではなくて「変革期に学校社会にいる」という喜び、楽しみと考えるようになれば立派である。良い年をした分別ある教師が「昔はどうだった、こうだった、給料は高かった」などと歎いても、愚痴っても、悪くは無いが、仕方がないではないか。ボツボツ諦めたらどうだ。時代は変わりつつあるのである。