学校文化の変質 共同互助会の崩壊と当事者至上主義の増長 その2「担任論」
1. 担任とは
・ 学校の共同互助会の機能が崩壊し始め、当事者至上主義が増長してくると学校現場に様々な問題が現れてくると昨日のブログに書いた。この特徴的なものは「担任という職位」に対してだ。
・ 教師には「持ち時間」という特殊な義務観念があることは以前の「公式メッセージに論考」としてかなり詳細に論述したが「担任になると持ち時間は1時間減される」。しかし問題はこの1時間減と担任の仕事との両天秤が問題なのである。
・ 40人のクラス全員がある程度の生徒像で揃った場合には教師は教科指導でも生活指導でもやり易い。「共通語でものが言える」からである。ところが、「この私、この僕」と生徒の個性が前面に出てくるようになると単純に「共通語で教える」というだけではすまなくなる。
・ 「髪を染めてはいけません」「ズボンをあげなさい」「スカートが短すぎます」「遅刻はいけません」」「早く教室に入りなさい」「最近元気が無いね、どうしたの」等々様々な局面で生徒に声を出すことが多くなってきているのが現実の学校現場の状況だ。生徒1人1人に言うことを変えねばならない。
・ 更に担任に覆い被さってくるのが「モンスターといわれる保護者」だ。本校の保護者の中にモンスターがいるかいないかはどちらでも良いが、こういうのに一度にらまれると担任は大変である。「うちの子の面倒を見るのは担任の先生の仕事でしょ!」と突っ込んで来られると、担任は弱い。大体教師は「保護者に弱い」のだ。
・ そういう生徒に対応するのが「担任の仕事」であるとされているから、共同互助会が機能しなくなると担任は1人で「多くの問題を抱え込むことになる」一方学校文化的には教師の当事者主義が強くなっているから、「あの生徒の担任は誰?」と担任はますます追い込まれ「早く何とかせねば」となる。誰も助けてくれない孤独と悲哀の中で担任は右往左往となるのだ。
2.逃げる担任
・結果として何が「起きるか」といえば「孤独と悲哀」から逃走を図る教師が出てくることに繋がる。「担任こそ、教師の華」、「是非担任をさせてください」という教師は概して「良い教師」であると言って間違いない。私の公立時代の経験でもそのように言える。
・ 「生徒と触れあい」「生徒との成長こそ教師の喜び」という教師は案外多い。こういう教師はどちらかといえば学校の共同互助性を余り高く評価しなくて「自分でやる」という教師が多い。「まどろっこしいことは嫌なのである」。担任当事者至上主義を絵に描いたように実践する。気をつけなければならないのは唯我独尊だ。
・ところが「担任から逃げる教師」が多くなってきているのも現実の姿である。特に課題を抱える学校では「担任は辛い、しんどい仕事」として「出来ればやりたくない」と考えるのである。持ち時間の1時間減などでは「割りに合わない」と考えている人たちである。
・学校とは結構上手く仕組みを作っている面もあり、「担任、非担任」は個人の自由にはさせないようにしている。これを許せば「担任のなり手がいない」ようなことが出てくるからである。一応「個人の希望は聞く」とはしてはいるが、3年サイクルで卒業生を送り出した後、1年間は非担任で充電をしてその翌年から新1年生の担任というのが代表的なモデルだ。その他多くのモデルがある。進学校では3年生の担任は非常にノウハウが要るから誰彼でも勤まるというものでもない。
・ところが本校でも管理職の説得にも応じない「逃げる先生」も存在したらしい。昨年以前のことだ。「10年連続担任です。」という先生もいればここずっと担任をしていない教員もいるのが現実の姿である。私の着任以降、そのようなことは無くなった。「逃げ得」は許さないということだ。
・大体専任教諭というのに、常勤講師を担任にして自分は「副担」と称して後ろに控え、指導するなど聞こえは良いが「要は担任をしたくないだけの話だ。」公立高校でも高校で副担を置いているところなど極めて少ない。余程の課題校か困難校だ。「浪速高校で副担などおく必要はない」。今年からやめた。
・ところがだ。世の中は上手く行かない。やむを得ず「担任にならされた」教員も「やるしかない」と考えては呉れるのだが、「当事者と考えるエネルギーは小さく」て「多くのことを見逃す」ことになりかねない。1年経って見えてきたのである。「この人はどうも担任に向かないな」と言う点だ。「生徒に申し訳がないと思うような担任がいる」とすれば大きな問題である。
・学校とは面白くて「やらねば、やらないですむ社会」である。言い換えよう。あった。今もある。今後はなくなる。即ち今日教えた英語の力がどれだけ生徒に伝わったか、誰もチェックなどしなし、見ている人もいない。生徒も何も言わない。生産現場みたいに今日は是だけ出来ましたなどの工場長への報告みたいなものは一切ない。
・教室は教科の先生と40人の生徒だけで作る空間であり、担任は自分の専門教科を教えたら、放課後前の終礼で「生徒の様子を見たり、連絡物を渡したり」で終わりとなる。共同互助会の崩壊はそういうクラスを「結果として放任」していることになる。教室で「何が起きているか」担任さえ分からないような事態が出現するのだ。
・担任の資質で「クラス運営」が大きく左右される。そのことは大きくクラス40名の生徒に影響を与える。一人の遅刻の常習者の放置は残り39名の生徒の授業に迷惑を与えている。一人の騒々しい生徒の放置はやる気のある生徒の集中力を妨げる。この1人の生徒に担任は立ち向かっていかねばならなくなってきているのが今日の担任を大きく疲弊させているのだろう。
3.来年度の担任
・本校の来年度の体制について、学年主任、科類長、分掌長は内定した。後は「担任」だがこれについて副校長は苦労している。学年主任、科類長とのバランス、経験、男女の比率、専任と常勤講師との割合など多くのマターがあるからだ。
・来年度は常勤講師の先生にも担任になって頂かなければならない。本校勤務の長い専任教諭でも「本当に担任が出来るのか」などと原点に戻って評価を見直すことも必要だ。
・入試広報室の有力メンバーが入院している。長引きそうだから、新たな人材を投入することも必要だが「適任者」がいるのかいないのか、いるのだが「担任当てはめが優先」される。来年度中学が1クラス、高校で3クラス増で考えているものだから、教師の手配に副校長は走り回っている。
・副校長案にまだまだ「OK」を私は出さない。それくらい「担任という職位を重要視」しているからだ。はっきり言って「担任が出来ないような教員」には舞台を降りて貰わねばならない。担任を遂行できないような教師を抱え込んでいるほど本校には余裕がない。