いじめ論考
・ 陰湿で悲惨な「いじめ」については昨日の「私学人研」でも大きな話題になっていたことは昨日のブログにも記した。いまや「国の教育問題は学力低下といじめ問題に集約」されているような気がする。
・ いじめについては本校の事例について以前のブログで「ないといえば嘘になる」とだけ書いた。教職員は言ってみれば公金を得ている「半ば公人の扱い」だから、個人が特定できないように配慮すれば何でも書けるのだが(実際は書いていないが)、とても生徒のことについては書けるものではない。
・ いじめのことを考えるたびに何時も思うことがある。それは被害にあっている生徒が教師や親に訴えないことだ。「何故なんだろう?」。発覚した後、何時ものパターンは「いじめを見逃していた教師、学校に批判の矛先が向けられる。」
・ むしろ被害の生徒がいじめの「事実を隠そうとする気配や事実」もある。何処の例とは言わないが1年以上にわたっていじめを見抜けなかったとしたら、それは余程のことで、「巧妙に隠したといっても被害の生徒が何時かは限界を感じて教師や親に言いそうなもの」だが、長期間判明しなかった例などは近辺に幾らでもあるのではないか。
・ 特にクラスの中でのいじめは多くの目があり、「担任教師」が何時かは「気づくだろう」と私は肯定的に考えるのだが、やはり「無感性の担任」によっては結果として「放置」もありうるのかーと思ってしまう。「担任と生徒の距離と密度の問題」としか思えない。
・ ところが場所が「部活動の部屋」でなどでのいじめとなると、もうここは放課後の密室での出来事となり、部活動の顧問が余程注意してみていなければ見過ごすことになりかねない。まさか部活動の顧問が部活動同士の仲間でいじめがあるとは思わないのが普通の感覚だろうが、ところがどっこい、最近はスポーツクラブでも散見される。
・ いじめ事件の皮切りになった愛知県西尾市の中学校のいじめによる自殺事件は新聞報道によれば現金を恐喝され暴行を加えられても「何をしても、さからわなかった」という。富士見中学校の場合も裁判の過程で明らかになったのは、屈辱的な仕打ちを受けても「むしろおどけた振る舞いで応じたり、にやにや笑いながら甘受」していたという。どこかで聞いたような話だ。
・ 被害生徒は「どうして隠すのか」、すぐ思いつく答えは「報復される恐怖」だと思うが自殺までして報復を怖れる心理は理解できない。竹内洋先生はこの原因を「自尊感情のパラドックス」と説いておられる。
・ これは、弱い者いじめという言葉があるように“いじめは弱い”という言葉と対で「弱々しく、格好悪い」という意識があり、そのことを「自尊心が許さず」、むしろ「僕は、私はいじめられているのではなくて、若干度の過ぎた悪ふざけ、遊びをしているのだ」と気持ちの上で迎合すると先生は言う。「なるほど。」
・ しかしだ。それでも「自殺するまでいじめを明らかにしようとしない」のは私には解せない。遺書にいじめのことなど書いて何故死ぬのか?何故助けを求めようとしなかったのか、まだ理解できない。
・ この点について竹内先生はいじめる側は「いじめているのに平気な様子でいることが許せない」として「ドンドンとエスカレート」する。そして金銭要求などいじめられている側は耐えられる極限を超えてくると、「生地獄」となって我慢に我慢を重ねてきた自尊心が一挙に崩壊」し自殺を代償にすると言われる。「フーン」。
・ 「いじめを隠す」論考でかなり過激なタイトルの本「誰が高校を殺すのか」の著者である都立高校の喜入先生は以下のように分析している。学校の中には「2種類の人間関係」があり、一つは「教師と生徒との垂直関係」であり、もう一つは「生徒同士の水平関係」である。
・ 子どもたちはこの水平関係を最も大切にしており、何よりこの関係の中から多くのことを学ぶ。「教師から学ぶのは嫌いな数学や英語であって」、水平関係の友達から学ぶものこそ「社会であり、自立への道」だと説く。だからこの「水平関係のことは大人、親、教師には喋りたがらない。」分かるような気がする。
・ 「教師という垂直な関係が介入してくることを極端に嫌う」。確かにこの分析は実際の現場でよく観察される。なかなか「口を割ろうとはしない」のだ。それで子どもたちは「いじめられてなんかない」と言い張るし、水平関係の中で解決しようとする。いじめもそのうち飽きたら「やめるだろう」とくらいにしか思わないのか。教師に「チクる」ことは彼らの中で最も軽蔑的行為になり、いじめよりもひどい軽蔑を受けるようになれば「二度と立ち上がれなくなる」ことを知っているから黙っているのであると言う。
・ いじめの問題は昔からあったことで急に出てきた話ではないというのが一般的であり、これには誰もが同意しようとするが本当かな。海外の学校でもいじめの事実はあったというのも、ものの本で明らかである。しかし昔はそれほどいじめが今ほど深刻に捉えられていなかったというのも社会学的には正しい。「いじめの定義」が時代とともに変わってきている。
・ 私で言えばいじめにあったことはないが、「ガキ大将」であったから小さな「悪さ」は沢山したかも知れないが「弱い者いじめはしなかった」ような気もする。仲間を平定して、安定社会を作っていた親分をさしおいて自分の子分へのいじめなどは許さなかった筈だ。.
・ 今の学校は生徒集団が小さく分散し、「君臨する大将」もいないみたいだ。運動クラブも「卓越したリーダー」が出なくなってきている。子供社会が変わってきたのは間違いない。おそらく「いじめの質的変化」が徐々に進行しているのだと思う。
・ 「ケータイいじめ」などは一昔、一昔といっても10年単位ではない、ほんの数年前のことだが、いまや世の中を驚愕せしめるような「ネットいじめ」が出てきて、それが主流になってきた。持ち物を隠すとか、こづくとかのいじめはどうも古くなってきている。
・ こういう感覚にたてば「対症療法的な処方」ではいじめの撲滅には到達できない。しかし教師の出来る範囲は限られている。どのように学校長として校内の生徒間のいじめをなくしていくのか、少なくしていくのか大変難しい問題だ。
・ それよりもまず「どのようにしてもっと早期に把握していくのか」このことのほうが重要だと考えるようになってきた。そのためには生徒社会に「どのようにして教師が介入していくのか」ここが問題だ。水平社会に垂直の教師が介入していく必要があるのか。個人尊重、子どもの世界に立ち入らない、生徒の目線でなどという「甘さ」が蓄積して「早期発見」ができないとなるとこれは問題だろう。
・ 「立ち入り方は凝視、面談、直接聞き取り、間接聞き取り、張り込み、監視カメラ、目安箱、様々な方法」があろうが、これらは行き着くところ「校内犯罪の摘発と抑制」のように見える。「悲しい話だが学校現場はそのような状態になってきていると考えるべきか」。ちなみに本ブログで引用している両先生のご意見は「校内犯罪対策の確立」「警察との連繋」などがあるが、それはいずれ又。