先生が先生を先生と呼ぶ社会
・ 学校と言うのは不思議なところで、同じ「組織内の人間に敬語」を使う。「先生」という呼称は学問的に敬語なのかそうでないのか、今、私にはよく分からないが、とにかく「先生の乱発」である。即ち何時でも何処でも「先生が先生を先生と呼ぶ社会」なのである。
・ 平成14年4月、府立高校の校長に着任した。早速その日から「校長先生」と呼ばれるようになった。最初に言ってくれたのは確か教頭先生だったと思うが、何か「気恥ずかしかった」のを覚えている。
・ あれ以来、6年間「先生」と呼ばれ続けている。最近は「理事長先生」もあれば「校長先生」もある。生徒はすべて校長先生だ。もう慣れた。「先生と呼ばれても不思議な感じはしなくなってきた」。仕事の終わったアフターファイブからも先生と呼ばれる。先生と呼んでくれないのは「親戚と会社時代の友人」だけだ。特に会社時代の友人は飲む時など「校長先生」と言う時があるが、あれは完全におちょくっているのだ。顔に出ている。
・ 考えてみれば転身するまで30数年間、企業時代に「先生」と呼ばれることは全く、一切,決して、絶対になかった。逆にこちらが相手を先生と呼ぶことは結構あった。企業の特にメーカーは「大学教授とのお付き合い」は新技術や学生の採用などの点で大切なものであり、たまたまそういう「役回り」もあったものだから「先生と呼ぶご相手」は政治家も含めてよくあったのである。
・ 「学校の常識は社会の非常識」というが、こういうものを超越して学校は成り立っている。来客があり、「○○先生、いらっしゃいますか、こういう者です。」と来たら「○○先生は今授業中でお部屋にはいらっしゃいません」と、こうなる。
・ 企業なり一般の組織では「生憎○○は今授業中で部屋にはいませんが、云々」となるのが普通だ。学校内部だけの会議の時も以下のような形になる。「今、XX先生が言われましたが、云々」となる。
・ これは夜の酒場で飲食している時も変わらない。ビールを注ぎながら「△△先生は何時も頑張っておられますからねー云々」となる。このように何時も同僚の先生をいかなる時にも「先生、先生」と呼ぶ心理は一体何なんだろうと遂考えてしまう。
・ しかし待てよ、「先生」と言う呼称は学校の「教師だけではなく、医師と政治家の先生、この三つの職業に共通」している。しからばこの三つの職業に共通する何物かを分析すれば背景が分かるのでないかと考えるようになった。
・ 教師と医師は国家試験を受けた「資格職」で、サラリーマンみたいに誰でも無資格でなれる職業ではない。一応「独立職」だ。政治家は「選挙で民意を得た」これまた「一国一城の主」みたいなものだ。即ち経験の差はあれ、身分上の上下関係はないと言ってよい。すべての人が独立した「主」みたいなものだ。
・ ベテランが若い人を「呼び捨て」にするような場面は例外を除いて全くと言って良いほど学校社会にはない。お互いが「先生」と呼び合うことで、見た目は「お互いの存在を尊重」しているのだ。それは朝起きた時から、夜寝るまで続く。職員会議であろうが、夜飲んでいようがこの形は続く。機嫌の良いときも悪い時も「先生」だ。
・ 「継続は力」というが戦後そのようにして学校社会は続いてきた。「昔から先生と呼び、呼ばれてきたから誰も不思議ではない」のである。「君付け、さん付け」などはこうなってくると「違和感を醸し出す」ので「○○さん」と呼ばれようものなら、「エッ、誰のこと?」となるのである。先生が先生でいることの「アイデンティティ確認は先生と呼ばれていることだ。」それは現役を退職しても、墓場に行っても人々の記憶に残る限り「先生」が続く。
・ 私ががたがた言う必要は無い。ここに良い本がある。最近騒がれた近くの学校の話だ。この学校の理事長が書いた「教師殿、企業へ出向を命ずる」という本の39ページに、学校の生指部長をやっていた人が2年間「うどん屋」に出向を命じられ、その方の言葉として以下のように書かれている。「それまで先生と呼ばれることに慣れていましたので、いきなり江口“さん”と呼ばれることに最初は違和感がありました・・・。」とある。正直な感想だと思う。
・ 勿論例外はある。本校の50才台後半のベテランのH先生は時々若い先生を「何々さん」と呼ぶこともあるが、この場合の何々さんは大体40才台が多い。「どちらかというと親しい仲、評価している先生に対して“さん付け”をしているみたい」だからややこしい。30才台や余り親しくないと今度は先生となる。
・ 慣れ、馴れ、狎れ、熟れとは本当に怖い。「それで普通」と誰もが疑問を持たなくなる。「社会の常識なんか、関係なーい、ここは学校だ!」となるのだ。下手に“何々さん”と呼ぼうものなら、「さん付けなど失礼極まりない」と言って返事などして貰えなくなるのが“落ち”だ。“さん”そのものが敬語なのになーと思うのだが。
・ しかしそれだけではあるまい。私は次のように観ている。「学校文化は平等、公平を厳守」するところが“命”だ。以前のブログにも論考しているが「共同互助会組織」である。「皆で決めて皆で行う、誰もが均等、持ち時間も分掌の仕事も全て公平、平等」にだ。
・ 学校の方針も「職員会議で全ての人が一票を保持し、それの投票で物事を決める」ということを戦後ズーッとやってきた。こういう社会には「役職呼名は校長と教頭」だけで「他はすべて先生」であったのである。この文化を維持するためには「さん、とか君」ではまずいのである。「先生一本」でなければならない。分掌の部長も□□部長とはあまり呼ばれない。やはり先生である。
・ 言いたいのは学校現場における「先生呼称の頻発」は上記のような学校文化が色濃く反映されていると私は解析する。英語の教師と理科の教師は全然違う。教えるものが違うからだ。「売り」が違うからこれらを統一する呼称は「先生」でなければならない。
・ 特に高校の教師はすべて「専門店の社長」みたいな「独立独歩の人たち」みたいなものだから「高島屋総合デパートの売り子」ではなくて「心斎橋筋専門店の売り子」なのである。高島屋の売り子は何でも売るが専門店は専門品しか売らないのだ。
・ しかし時に教科の中では「ドン」みたいな先生がいて、若い教員を「呼び捨て」にしたりする人がいるが、これは例外だ。決して悪気ではなくて「親しみの表現」と理解しているが「フラットな教員社会に管理職でもない平教員が他の教職員を呼び捨て」にしたりしたら逆に組織管理者にとっては「違和感」を感じて、「君の部下でもない私の部下に貴方は何て呼ぶの!」という具合になりかねないから、これは止めた方が良い。大体体育会系に多い。
・ そういえばこういう事件もあった。某運動クラブの外部監督が「本校教諭を部員の前で高校の後輩だからと言って呼び捨て」にすることが「聞き苦しい」と「保護者会からクレームがついた」ことがある。少なくとも教育の一環の部活動だ。生徒の前では「先生」と呼ばねばなるまい。これは阪神の兄貴、金本と新井の間の関係ではないのだ。
・ 結局「先生という呼称ほど便利なものはない」のである。先生と言っておけば、まず間違いない。生徒が「先生、先生」と言ってきているのに、その傍らで「さん、クン」では良くないことは容易に理解できる。
・ 「先に生まれ」60才近い人生のベテランの保護者でも、「後に生まれた」若い20才台の教師に「先生」と呼ぶ。俺の方が先生だと、本当は言いたいところだろうが、文句を言わず、むしろ社会通念上積極的に「先生と尊敬の念を有して呼ぶ」。このような職業たる「教師という仕事」は素晴らしいと思う。「誇り」を持って頑張って欲しい。それが先生と呼ばれることへの恩返しだ。