2008年5月12日月曜日

5月12日(月)その2:上司の顔より

上司の顔より仕事の顔を見よ
・ 今朝の日経新聞に良い記事があった。インタビュー記事「領空侵犯」の囲みで、今日は「哲学者の梅原猛先生」の登場だ。とにかく従来からの学説をどんどん覆す、このためにお仕事をされているかと思わんばかりの「異端の研究者」で知られている。記事のタイトルは「辞表も出せる会社員に」である。
・ 記事の末尾に以下のような先生のコメントがある。「狩猟採集を主とした縄文人が独創性に富んでいたのに対し、弥生時代に稲作が始まると同じ品質のものを大量に生み出すようになり、弥生人はついに強い個性を持つことがありませんでした。以来弥生文化が連綿と今日まで続いて日本の組織は弥生人ばかりになってしまいました。組織には品質管理する弥生人も必要ですが、縄文人がいなくては新しい発想は生まれません。日本社会はもっと縄文人のような創造的な異端児を育て、生かすという視点を持つべきです」で終わっている。
・ まったくその通りで「我が意を得たり」であり、学校社会にそのまま当てはまる。「学校は弥生人の集まり」である。「農耕民族の集まり」である。春が来れば種を植え付け、苗を植え付け、秋に収穫する、毎年同じことの繰り返しである。それで「食べていけるから」である。
・ 春に新一年生が入ってきて遠足をして夏休みが来て修学旅行に行って文化祭や運動会が秋にあり、年が明けたら直ぐ卒業式で又春になったら新入生がくる。「学校は行事消化型社会」とは私の造語であるがまさしく「弥生文化」農耕民族そのものだ。
・ 学校には縄文人のような創造性は必要なく、逆に創造性を持ったり、異端と思える発想をする人間は「排除される仕組み」である。良いアイデアを言っても過半数の意見にならない限りそれは実現できない。今まで何回も書いて来たとおりである。
・ 梅原先生は企業社会を念頭にタイトルの如く「辞表も出せる会社員になれ」と言っておられるが、この意味は「創造的な仕事をするには前例や慣習、常識にとらわれることなくやれと。保守的な先輩や上司の考えと対立すると組織の中で孤独になり、冷や飯を食いかねませんが(ご自身は冷や飯を食っている経験がある)それに耐える力を持たなくてはいけないと言い、“上司の顔でなく、真理の顔”を見たほうが良い。場合によっては意思を貫くため会社を辞める覚悟や勇気も必要でしょう。それはたとえ中高年であっても同じです。」と言われている。
・ まあしかし哲学や文化人類学の世界では分かりますが真理の追究と言ってもわれわれには難しいところがあります。だからこのブログのタイトルは私が書いたように「上司の顔より、仕事の顔を」としたのです。もっと言えば「仕事の結果」でしょう。
・ 不細工な私の顔など見なくて結構ですから自分の仕事の結果を見て欲しい。「本当にそれで良いのか。新しいアイデアはあるのか」「去年より自分は教師として成長したのか」等々仕事の顔をみることが重要です。
・ そのようにして自分の仕事を見ていくと「弥生人だけでは駄目なことが分かります。時に荒々しい縄文人の独創性やアイデア狩猟性などが「仕事の変革には必要」なことなのです。
・ 梅原先生は更にこのようにもコメントされています。「同じ顔をした社員ばかり揃える会社は必ずどこかで行き詰まります。女性もいればアメリカ人もインド人も中国人もいる。誰一人同じ顔をしていない個性的な人たちが集まって議論することで新しいものが生まれるのではないでしょうか」と。
・ たとえば理数科長が信念を持って「こうしたい、こうすべき」と議論を吹っかけてきたら「堂々と受けて」議論したら良い。そして「最後に決めるのは学校長」です。基本的に校務運営で教員が決定できる項目はないと思います。このことを皆さん、ご存じない。碌な議論もせず「職員会議で挙手で賛否を問う」なんてやらないほうが良い。
・ 意識レベルの低い人やイデオロギーを持ち込み、「教員の労働過負荷は嫌だ。」「生徒の過重な負担になる。」「遅れている生徒はどうする、生徒に差をつけて良いのか、人権問題だ」などというのが「弥生人の常套手段」なのだが、これらは言い訳に過ぎない。「ようはしんどいことはしたくない」だけの話しだ。
・ 縄文人は得てして「激しいところがある」からと時に物議をかもすが、実は社会は“時に所に”で「縄文人が出没することによって進化」しているのだ。ただし縄文人ばかりでは社会はまとまらない。縄文人、信長で大改革がなされ、弥生人、家康に移って日本は安定した。実力のある弥生人も必要なのである。
・ 私は縄文人である。理数科長も縄文人である。事務長も縄文人かな?その他縄文人らしいのはいる。結局自分の中に縄文人の部分と弥生人の部分を合わせ持つことが望ましいが、簡単な話しではない。私は自分が縄文人であると考えているから弥生人を心がけている。この気持ちが大切だと自戒している。
・ 気をつけなければならないのは「縄文人なりすまし」である。自分は完全に「弥生人なのにスタイルは改革を口にしたり、権力者に擦り寄ったりする「似非縄文人」である。しかし「心配は無用」。それほど私は甘くはない。海千山千の企業社会を経験してきている。眼光紙背に達するだ。
・ 浪速は今完全に「弥生式農耕型行事消化社会」から「際立った縄文人校長」を得て「鍬と鋤だけの社会に鉄器を投入」し「大地ごとひっくり返して大地を耕している」。変革だ。「変革は痛みを伴うが変革をしなければ生き残ってはいけない。」
・ 浪速と言う大地がよみがえれば「安定した弥生人と縄文人の共生社会となるだろう。」様々な教職員が居て良い。そうあるべきだ。判断基準は「仕事の顔」だ。これを目指して私は頑張っている。
・ 「人材評価育成システム」とは実は「縄文人タイプ」「弥生人タイプ」「成りすましの偽者タイプ」を見定め、指導育成していくものと考えられる。教職員は「上司の顔を見ず、仕事の顔を見よ」。私は教職員の顔を見るのではなく教職員の仕事を見ているのだ。出自、大学、組合非組合、経験、男女差、等々「関係なーい、仕事だ。」